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「科学技術と社会=STS」への招待

中島秀人(『UP』1998年12月314号、pp.19-25)

本年一九九八年三月一六日から二二日までの一週間、東京(幕張メッセ)、広島(平和公園内国際会議場)、京都(けいはんなプラザ)を会場に、「科学技術と社会(STS)に関する国際会議」が開催された。三会場を次々と移動しながら開催された会議は、参加者総勢三七二名という、国内のこの種の会議としては大規模なものとなった。海外参加者も、欧米先進国からリトアニアまで、三二カ国、約一三〇名を数えた。学会形式の発表二三〇件のうち過半の一三〇件が海外参加者によるものであり、実に国際色の豊かな会議だった。加えて、公開シンポジウムが二件、非公開のシンポジウムもいくつか持たれ、どの会場でも、英語・日本語を交えた非常に活発な議論がなされた。

本稿では、この国際会議の実行委員の一人の立場から、会議を開催するに至った経過を紹介し、あるいはその背後にあるSTS(科学技術と社会)という新しい研究分野の興隆について論じたい。それは、STSが日本で今まさに成熟しつつあり、STSのための制度の整備、つまり学会や研究機関を設置することが、会議後の危急の課題となっているからである。

HPSからSTSへ

冒頭から唐突にSTSという言葉を振り回してきたわけだが、読者の中で、STSという言葉になじんでおられる方はあまりおられないだろう。STSは、英語のScience, Technology and Societyあるいは、Science and Technology Studiesを略したものだ。こなれた日本語の定訳がないが、国際会議との関係で、ここではSTSを「科学技術と社会」と訳しておこう。筆者は前節で、最近STS研究が興隆してきたと述べた。前記の訳語を踏まえてこれを日本語で言い換えれば、「科学技術と社会」の関係の研究が盛んになった、ということになる。だが、そう訳してしまうと、「何を今さら」と感じられる方は少なくないはずである。なるほど、科学史や科学論なら、第二次大戦前から存在していたし、国内でもそれなりの人気を保ってきた分野なのだ。

筆者は元来科学史を専門とするものである。科学史や科学論などの業界でSTSという言葉を頻繁に耳にするようになったのは、日本ではここ十年ほどのことだ。欧米ではやや先行して、八○年代後半からこの言葉が根付いていたようである。もっとも、英語の分厚い『STSハンドブック』が出版されたのがようやく一九九五年だから、STSという言葉が広く使われるようになったのは、世界的にみても案外遅いのかも知れない。いずれにしても、科学史や科学論の分野の研究者が、最近になってSTSという新語を使用し始めたのである。これは単なる看板の付け替えではなく、学問内部でのある変化を反映したものだった。 その変化について、STSの若手論客の一人、英国ダラム大学のスティーブ・フラーは、「HPSからSTSへ」という巧みな総括をしている。HPSというのは、英米圏で科学史・科学哲学(History and Philosophy of Science)という分野を指すのに頻繁に使われる略号である。フラーは、科学史・科学哲学が、ある必然性を持ってSTSに移行していると考えている。筆者の体験を下敷きにしながらこの移行を再構成すると、以下のようになる。

科学史・科学哲学(HPS)の限界

科学が専門職業として確立し始めたのは、一八世紀末、フランス革命後のことである。これに伴って、当然のごとく科学の歴史や本性を考える学問分野が形成されてきた。例えば、「科学者(scientist)」という英語を一八三四年に発明したとされるイギリスのウィリアム・ヒューエルは、その直後に、『帰納的科学の歴史』、『帰納的科学の哲学』という二冊の本を出版した。各々科学史と科学哲学の著作である。

しかし、当時はまだ科学を社会に組み込むことが精いっぱいで、HPSの学問分野が確立するには至らなかった。その実現は、二〇世紀に入ってからだ。ベルギーの科学者サートンの手で国際的な科学史雑誌『アイシス』が創刊されたのは一九一二年。戦間期にはHPS関連の学会の整備が盛んとなり、二四年にアメリカ科学史学会、三五年にはアメリカ科学哲学会が創設された。日本でも、四一年に日本科学史学会が作られたのである。ウィーン学団を起源とする論理実証主義的な科学哲学が広まったのも、戦間期以降である。

これらの動きは、戦後になって国際的なHPSの学問的発展につながり、日本にも波及した。筆者が東京大学の科学史・科学哲学の大学院に進んだのは、一九八○年である。創立から約十年を経た日本唯一のHPSのこの学科は、制度の一応の整備を終えつつあった。そこでは、日本旧来の科学者の余技としての科学史が、アメリカ流の学問的科学史によって塗り替えられようとしていた。内外の先行研究を漏れなくフォローし、原典史料を詳しく吟味批判し、しかるべき学会誌に研究成果を問う。ニュートンを研究テーマに選んだ筆者は、欧米の学問研究の蓄積に驚いたものだ。

だが、ある程度時間が経って落ち着いてくると、筆者は、いわゆる学問的科学史に疑問を持つようになった。というのは、学問的な実証研究をすればするほど、現実の科学技術の姿が見えなくなってくるのに気付いたからだ。ニュートンがいつ万有引力を発見したか厳密に決定することは、学問的には意味が深い。だが、現実社会に科学技術が引き起こす諸問題の解決には、ほとんど何の関係もない。

振り返ってみれば、筆者が科学史に導かれたのは、故・広重徹氏の著作などを通じて、科学史研究が「科学批判」に役立つと信じたからである。批判といっても、否定的なものだけではない。科学技術のあるべき姿を考えてみたいという気持ちもあった。筆者が科学史を志したのは公害の時代の直後であり、これも科学史へ筆者を向かわせた。そういう筆者にとって、学問的科学史は、社会との接点を失っているように思われた。否、それだけではない。冷戦華やかなりし当時、科学技術と社会の関係を論じるなどというのは、マルクス主義系科学論者がやることであって、ご法度という雰囲気すらあった。わずかに例外なのは、マートン派の科学社会学といわれるものだけだった。

クーンから科学知識の社会学(SSK)へ

一九七〇年代から八○年代、このようなHPSの現状に対して、若手の研究者中心に、その限界を乗り越えようという努力がなされた。クーンの『科学革命の構造』で呈示されたパラダイム概念は、その流れに強い影響を与えていた。クーンの後を継ぐ欧米のポスト・クーニアンと言われる学者たちの研究は活発で、国内では、彼らの研究のフォローが行われた。

周知のように、クーンは、科学的真理といわれるものを、科学者集団がある一定期間信じているパラダイムに過ぎないとみなした。科学活動は、絶対真理の発見の連鎖ではなく、一種の合意形成と見なされた。ポスト・クーニアンは、この議論をさらに進めて、科学理論が社会思想や政治によってどのように規定されているかなどを盛んに論じた。知識社会学的な観点から、科学の知的特権性が剥奪され、相対化された。これがいわゆるSSK(科学知識の社会学、Sociology of Scientific Knowledge)である。

一九六〇年代、科学者はベトナム戦争の武器開発などに動員された。また、企業の公害垂れ流しは、科学の名のもとに合理化されることがあった。水俣病のアミン病因説などは、水銀汚染という現実を科学が隠ぺいするものだった。このような社会的文脈の中では、SSKは、科学の相対化を通じて、一定の科学批判の役割を果たした。

ハイチャーチとローチャーチ

SSK一科学知識の社会学)は、STSの一部ではあるが、STSの本質からみると、その周辺分野を形成するものに過ぎない。再びイギリスの学者フラーの言葉を借りれば、それは「STSハイチャーチ」を構成する部分なのである。もし「STSローチャーチ」を欠けば、STSは完結したものにはならない。ハイチャーチ、ローチャーチというのは、英国ピューリタン革命を論じるときの用語である。前者はカトリックに近いピューリタンの保守派、後者は穏健派を指す。しかしフラーは、ハイチャーチという言葉で学問的傾向の強い人々、ローチャーチという言葉で実践派に近い人々を指している。

SSKがSTSハイチャーチに属するというのは、次のような意味である。SSKでは、頻繁に科学史の研究事例を利用する。例えば、一七世紀にロバート・ボイルの科学理論が、どのように当時の社会的文脈と関係を持つかを考察する。その方法は、歴史文献の分析を中核とするもので、伝統的な学者の方法である。なるほどそれは、科学の本性を明らかにする方法の一つではあるが、HPS同様に、現在進行中の科学技術活動は、STSハイチャーチの視野からは失われている。

STSローチャーチは、問題を机の上からではなく、社会の側から捉えようとする。科学技術に対する政府の研究投資はどうあるべきなのだろうか。基礎研究は、本当に科学の振興に役立つのか。米国の巨大な加速器SSCの計画は、なぜ中止に追い込まれたのだろうか。科学研究者にとって研究のアカウンタピリティー(一般への説明責任)は重要か。日本の科学研究水準は、本当に米国より低いのか。若者の科学離れをくい止めるにはどうすれば良いのか。DNA鑑定は、法廷証拠になり得るのか。クローン人間は許されるのか・・・等々。このような具体的問題が、STSローチャーチの解くべき課題である。

こうした現実指向の問題設定が既存の科学史・科学論と結びつくとき、その全体は、初めてSTSと呼び得るものになる。すなわち、STSとは、あらゆる学問伝統を動員して、現代社会で実際に起こっている科学技術関係の諸問題を分析し、その解決を議論する研究プログラムなのだ。もちろんそのために、従来にはない方法論を作り出すこともある。現実指向なだけに、これまで相対的に独立して発展してきた科学政策学やイノベーション論、科学教育とのつながりも緊密である。また、科学だけではなく、技術も重要な対象となる。

STS興隆の背景

従来のHPS(科学史・科学哲学)やSSK(科学知識の社会学)は、ある意味で静的な科学技術分析と言える。それらがSTSへと方向転換を迫られているのは、以前に比べて、社会の中で科学技術の引き起こす問題が増大し、解決も複雑になったためである。生命倫理や地球環境問題に対する認識は、今や一般社会に定着したように思われる。さらに、新聞の紙上では、インターネット、環境ホルモン、遺伝子組み替え食品、インド・パキスタンの核開発など、科学技術をめぐる問題がめじろ押しである。このような現状を前に、SSKのようにポストモダン的な言説を弄しても、何の現実的解決策も生まれない。むしろ逆に、昨今の「サイエンス・ウォーズ」に見られるように、SSKは、否定的な役割すら果たし始めている。

STSの興隆には、科学技術の引き起こす問題の増大とは別の理由もある。科学技術が国家の行く末を左右する重大な位置を占め始めているという認識の高まりも、STSの背景なのである。八○年代の日本の作り上げたハイテク・ドリーム、これに対するアメリカの情報産業による巻き返し。日米に遅れまいと必死にイノベーションカを向上させようと努力するEU諸国。日本は、再び米国に追いつき追い越そうとして、「科学技術基本法」を策定した。科学技術は、国家の運命を決するとも考えられているのだ。

日本でのSTS国際会議

HPSに不満を持つ筆者がSTSという言葉を最初に知ったのは、英国の物理学者でSTSの旗手の一人ジョン・ザイマンの『科学と社会を結ぶ教育とは』一産業図書より刊行一の翻訳を八八年に手がけてからである。その後東大先端研に助手として就職し、九〇年、そこを本拠に、日本最初のSTS推進団体である「STSネットワーク・ジャパン」を知人たちと組織した。会は順調に発展し、年数回のシンポジウム開催、年四回のニューズレター、毎年のイヤーブックの刊行を手がけた。後知恵で考えれば、こうして国際会議への基礎が作られた。

そんな一九九四年春、アメリカのSTS関係者から、日本でSTSの国際的な会議ができないか打診があった。筆者は、この提案は非常に重要だと直感した。というのは、その直前に約一年間英国生活を送り、日本が世界有数の高度なハイテク社会であることを痛感したからだ。外からみると、日本には、科学技術をめぐる諸問題が典型的な形で凝縮していた。それだけではなく、STSが世界的に興隆してきたこの段階で国際会議を主催することは、日本のなすべき国際貢献であるとも考えた。HPSやSSKでは、日本は海外の研究の一方的な受益国であった。そろそろ世界的なリーダーシップを発揮すべき時だった。さらに、日本国内でのSTSの認知にも会議は役立つ。

さっそく周囲のSTS関係者たちと相談したところ、反対はあったものの、全体としては積極的な反応が多かった。そこで、STS国際会議準備委員会を発足させ、九六年十月にドイツで開催されたSTS関係の国際会議で、次年度中に日本で国際会議を開催する旨を公表した。メインテーマは、「科学と社会の技術化」とした。先端技術の肥大により、科学と社会がどのように変容するかを論じようという意味である。

会議準備の経過では、STSハイチャーチとローチャーチの国際的対立への対処など、解決すべき問題も少なくなかった。そのすべてを書くにはここでは紙数が足りないが、いずれにしても、国内若手研究者の熱意と、年輩研究者のバックアップにより、文部省や各種財団の資金援助を得ることもできた。準備委員会から正式の組織委員会への改組、運営体制の構築など、予想以上に準備は順調に進んだ。高額の開催資金調達のための募金には、共催団体の(社)日本工学会の指導を仰ぎ、後援団体には、科学技術庁、日本学術振興会などにもなっていただくことができた。STSに対する社会的な期待を感じる日々だった。

このような準備と並行して、海外のSTS有力研究者に対して、日本での国際会議への主催者招待を申し入れた。ほとんどの研究者が来日を快諾され、期待は膨らんでいった。国際会議のメインシンポジウムでこれらの海外招待者が実際にひな壇の上に並んだとき、よくまあこれだけの有力者が一同に会したものだ、と主催者・参加者ともに感動を禁じ得なかったほどである。

国際会議の成果

今回の国際会議での学会形式の発表のテーマは、STSのあらゆる分野に及んだ。HPSやSSKはもちろんのこと、科学技術と環境、サイエントメトリクス一科学計量学)の可能性と限界、情報技術と社会変化、科学技術についての国家政策、産官学の協同、一般人の科学理解(PUS)、科学技術とジェンダー、東欧圏の科学技術、日本の科学技術の特徴など、魅力あるセッションが多数持たれた。さらに、二件の公開シンポジウムが、「冷戦と科学技術」および「遺伝子治療についてのコンセンサス会議」をテーマとして実施された。前者は、冷戦型科学技術の歴史的展開および特質を明らかにし、冷戦崩壊によって科学技術システムがどう変化するか考察するものだった。一方後者は、「コンセンサス会議」という、一般人が科学技術研究の是非を論じるための会議を、日本で初めて実験的に実施したものである。両シンポジウムとも、新聞などで報道され、多数の参加者と、大きな反響があった。

早いもので、国際会議が終了してから、約半年が経過した。今振り返ってみて、目標としたものは基本的には達成できたと考えている。成果はそれだけではない。国内発表者の中には、海外の研究者から論文寄稿の依頼を受けた方も多い。いくつかの海外の雑誌では、日本の国際会議で発表された論文の特集も組まれている。会議の事務方としては、このような予想外の収穫は、喜びに堪えない。

日本のSTS研究も、ようやく国際水準に達し、世界への寄与を始めている。次の課題は、その研究を支えるための学会や研究機関を国内に創出することであろう。その意義と心意気を多少なりとも感じとっていただけたとするなら、本稿は目的を達したことになる。

STS国際会議(幕張メッセ、1998年3月)

(なかじま・ひでと 東京工業大学大学院社会理工学研究科助教授/科学技術史・STS)



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