驚くべき鈍感、静かな狂気

富崎聖敏



 事件当日は、早朝に東京を遠ざかる電車に乗るまで徹夜だった。東京は事故現場から約100キロである。近いのだ。どうやって身の安全を図ればいい?しかし、それ以前に行動を起こす必要があるのか?情報は?調べ、考えることは山のようにある。
 そのとき特に記憶に残っているのは、事件に対する鈍感な空気である。夜中、いったい何が起きているのか正確なことがわからないなか、インターネットで掲示板をモニターしていた。「政府が発表しているのは本当なのか」「報道規制はあったのか」という話題が書きこまれるのを見ながら、なんとのんきな人達なのだ、今、重要なのはそんな事じゃないだろ!と少し腹立たしくもなった。必要なのは「正確な情報」「それを理解するための知識や経験」である。その結果どうするかの判断は「個人」が行えばよいのだ。ほとんどの人は眠っていたのだろうが、STSJメーリングリストの反応もほとんどない。某歴史系メーリングリストに至っては全く無視。
 一方で、大ニュースに対して大半の局が全く無視するかのごとく、通常どおりの番組を放送しているのを見たのは生まれて初めてだった。それだけでも「普通ではない出来事、すなわち非常事態」が起きているのだと思った。なぜ、こんな時に寝ることができるのだ? 規制が行われているのはテレビを見れば明らかであるし、様々な分野にわたり不祥事が絶えない行政機関が、ここ一番で本当のことを発表すると期待できる根拠は極めて乏しい。本当のことを発表するのが必ずしも最善というわけではないとはいうものの。一連の情報について、こう理解するのが、日常経験と知識がベースの道理にかなった判断だと思う。
 状況からは、即座にできるだけ遠くに逃げるべしという結論がでてくるはずであるが、平和な日々が続いているためか(それは素晴らしいことである)、どうも踏ん切りがつかない。何か具体的な刺激がないと反応しない、できない気質に私自身なってしまっているようだ。それとも他の人と違う行動をとることにためらいがあるのか。しかし、それでは危険を避ける、即ち予防にはならない。いや、事態は予防の段階をとっくに通り越しているではないか。
 インターネットには「当然逃げるべし」という意見もあったが、「大丈夫だよ、きっと」というオーラを漂わせている発言のほうが多い。しかし、ニュースを見る限りでは行政機関ですら「よくわからないけど物凄く危険な事態」と認識しているように見える。誰も本当のところを知らないようだ。それなら、「生命の危険が及ぶかもしれない事態は可能な限り避ける」のが正常な反応ではなかろうか。
 ネットを検索しながら、あの夜、専門家と呼ばれる人達は何をしているのだろうか?と何度も思った。こんな時、どうして様々な単位や放射線に対する専門知識を答えてくれる人がインターネット上に見つからないのだ?知らずに寝ていたのなら仕方ないが、報道されている情報から事故の程度を、専門知識に基づいて判断し、情報を発信できるだけの能力を持っている人が、あの時間帯に存在しなかったのだろうか?知り合いにいれば当然たたき起こすところだが、残念ながらいなかった。インターネットを利用するには社会がまだ成熟していないのだと感じた一夜だった。他の多くの「道具」をうまく扱えないのと同じように。
 早朝、事故はとりあず一段落した(ことになった)。そして、数日のうちに、私の周りでこの問題を話しているのは、STSJメーリングリストの数人だけになってしまった。身の回りでも、ほとんど全員、何事もなかったかのように暮らしている。危険を認識しない恐るべき無関心がそこにある。
 火に触れた瞬間に「熱い!」と知覚できなければ、気がつかないまま自らの身体を傷つけやけどの痛みに苦しむか、あるいは生命を落としてしまう。
 やけどの存在すら気にならない人があまりにも多い。静かな狂気が進行している。



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