'99 STS Network Japan 春のシンポジウム
「グローバル・サイエンス、ナショナル・サイエンス、ローカル・サイエンス」開催報告

水沢光 (東京工業大学)



プログラム(敬称略)
  司会:隠岐さや香(東京大学総合文化研究科)

(はじめに) 春日匠(京都大学人間・環境研究科)
  「科学の地政学的位置について :プロレタリア科学、マイノリティー科学、サバルタン科学-」

(パネラーの講演)
隅蔵康一(東京大学先端科学技術センター)
  「特許と国家 :国家戦略は世界に貢献できるか?」
橋本毅彦(東京大学先端科学技術センター)
  「原爆開発と戦後の科学 :罪、責任、危険、希望」
鬼頭秀一(東京農工大)
  「技術における普遍性とローカリティ :生命技術と生態工学の可能性を巡って」
平川秀幸(ICU大学院)
 「グローバルサイエンスは可能か :生物多様性条約における知識のポリティクス」
(総合討論)




 3月28日(日)に、東京工業大学石川台1号館において、STSNJ春のシンポジウムが開催された。参加者は発表者を含めて40名弱だった。以下、簡単に報告する。
 まず春日匠氏が、問題提起として、「我が国の繁栄のための科学」、「地球のための科学」という言葉を取り上げた。こうした言葉は当然のように使われているが、その意味にはっきりとしたコンセンサスがない現状を明らかにし、これらが互いに矛盾しないものなのか、また、何を示しているのかを問うた。
 また、春日匠氏は、「科学の地政学的位置について:プロレタリア科学、マイノリティー科学、サバルタン科学」と題して、科学の受益者はだれかという視点から、プロレタリア科学、マイノリティー科学、サバルタン科学という3つの理念系を提示した。プロレタリア科学では、プロレタリア全体が利益を享受できる単一の科学が想定される。これに対し、マイノリティー科学では、様々なグループを擁護する様々な科学が考えられる。また、二重の抑圧を受けるサバルタンの問題も取り上げた。
 続いてパネラーの講演が行なわれた。まず、隅蔵康一氏が「特許と国家 :国家戦略は世界に貢献できるか?」と題して講演した。科学の世界では、学生でも研究結果さえ出せれば、英語でジャーナルに投稿できる。こう考えると、科学はサムシング・ニューイズムで国境の無い、グローバル・サイエンスに思える。ではどこの国の科学研究でもよいのだろうか。現実には、自国の科学技術を発展させることが、当然の目標とされている事実を隅蔵氏は提示する。国家経済の発展に貢献するためだ。これはまさに、本シンポジウムのいうナショナル・サイエンスだろう。そして研究成果がいかにしてお金になるかというと、特許を通してである。現在アメリカは、特許を広範囲に認めるプロパテント政策のもとで国家戦略的にバイオ研究を行ない、世界のヘルスケアを支配しようとしていると、隅蔵氏は指摘する。特定技術分野の一国のみによる支配は、急に特許料が上がり、十分な医療を提供できなくなるなどの危険性をはらむ。日本がアメリカに対抗して、国家戦略的にバイオ研究を行なうことは、リスクヘッジという意味で、国益と同時に世界にも貢献する。また、現在の国ごとの特許制度を変え、世界共通特許を定めようという考えがある。しかし、ヘルスケアなど人間生活に必須の特許が特定の国に押さえられている現状を考えると、途上国がアンチパテント政策で技術へのアクセスを維持できるオプションを残しておいた方がいざという時の備えになることを隅蔵氏は明らかにした。
 ついで、アメリカのバイオ産業の形成と発展について述べ、その環境要因として、多数のベンチャー企業の存在、非独占的で適切なライセンス条件、産学の技術移転を促進する環境をあげた。最後に、日本の新規産業創出に関して、これまで大学独自の技術移転機関というものがなく、大学教官の個人ベースでの努力に頼っていた状況を示すと同時に、現在、TLOの設置を計画・検討している大学が増えていることを述べた。また、問題点として、各大学の発明委員会に拠る発明の帰属判断が迅速でない、技術移転機関に拠る発明の掌握が容易でない、技術移転に携わる人材の不足、大学研究者のベンチャー企業設立に対するハードルが高いことをあげ、それぞれ具体的な解決策を提示した。
 ついで、橋本毅彦氏が「原爆開発と戦後の科学 -罪、責任、危険、希望-」と題して、いやでもグローバルな影響を持たざる得ない、科学者の活動の責任について、科学史的立場から講演した。話は、物理学者の藤永茂氏が『世界』に書いた論文とからめ、原爆開発に携わった科学者に焦点を絞って進んだ。オッペンハイマーは戦後、「科学者は罪を知った」とコメントした。これと対照的に、コナントは罪を拒絶する立場をとった。また、テラーは核開発に関する研究に熱中し、その重要性をまわりに説く、ある意味で研究に没頭する科学者の典型だった。シラードは目が利き、社会的行動力があり、「戦後人々への警告のために使用すべきである」「純粋に倫理的配慮から控えるべき」など相矛盾しながらも自分の見解を精力的に訴えた。「科学者の社会的責任」については、「原子力の開発は今までと違うという責任論」「専門外で適切な発言、行動が取れない」「将来の可能性に関し洞察できる」などの意見があったことを、橋本氏は明らかにした。
 休憩をはさんで、第二部はまず、鬼頭秀一氏が「技術における普遍性とローカリティ:生命技術と生態工学の可能性を巡って」と題し、ローカルな場での事例に対して、科学・技術の専門家がどうかかわるかという問題を提起した。そしてこの問題に対し、生命技術と生態工学という2つの事例を通して考察した。生命技術とは、多様な生命過程を統一性の視点から考える試みである。地域に根差した形で行われていた、在来型の農業に対し、生命技術を用いる近代農業は、普遍的な原理の下に行われる。この典型が「緑の革命」だったのだが、これは地域の様々なネットワークを切断してしまった。また、その担い手は、科学者、技術者という専門家であり、今までの農業の担い手だった地域の人々は排除され、支配されることになってしまったと指摘する。そして、農業技術の担い手とは同時に、文化の担い手でもあった。鬼頭氏は「緑の革命」の反省から何を学ぶべきかを問うた。
 生態工学とは従来の土木工学を見直し、生態学の知識も導入した工学である。生態系という視点が新しい価値を創造するのか、単に生態系をも含めた徹底的な管理という方向に向かうのかという問題があるという。技術の担い手が地域住民から専門家へ移るのも心配だ。鬼頭氏は、こうした問題を諫早湾、霞ケ浦などの事例をあげながら、説明した。最後に、自然の地域的特性を考えざる得なかった「伝統技術」と、自然の制約条件を克服したと考えた「近代技術」におけるローカリティ の捉え方の違いを明らかにした。今後の新しい技術として、自然の地域的特性を意識的に取り上げ、活用する技術を提案した。そして、技術を考える時に、専門家だけで発見できる「唯一解」が、具体的なローカルな場にさえも無いと述べ、当事者たちの参加による形成の必要性を訴えた。
 最後に、平川秀幸氏が「グローバルサイエンスは可能か:生物多様性条約における知識のポリティクス」と題して講演した。1992年採択、翌年発効した生物多様性条約は、生物多様性と遺伝資源の持続可能な利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分を目的としたものだ。生物多様性条約における南北対立は、生物特許をめぐるもので、アメリカは条約は産業活性化と利益保護を阻害するとして当初は署名を拒否し、現在も批准していない。途上国からはバイオテクノロジーと生物特許がもたらしうる社会的・生態的リスクへの批判があるという。同種の種子ばかりを使う均一化によるリスクの増大は同時に、農家の自立的経営基盤の破壊をも意味する。ここで見られる対立は、「先進国のナショナルな利益のグローバルな追求と、途上国のローカルな利益の対立」「バイオテクノロジー+生物特許と、土着地域の社会秩序と知識の対立」「過剰介入ゆえに成功する知識と、無知ゆえの非過剰介入ゆえに成功する知識の対立」という構造を示す。平川氏は、科学技術が孕むリスク要因として、知識の増大に伴う際限のない社会的・自然的世界への介入、分子生物学を使わない知識の特許取得からの排除、バイオテクノロジーへの根拠のない信頼を提示した。また、単にナショナルな利益だけでない、グローバルな科学の条件として、ローカルな参加型実践、それを可能にする技術を生み出す新たなインセンティブ、従来の特許制度とは異なる知識保護システムの構築の必要性を訴えた。同時に、これらの実現のための努力を日本に求めた。
  パネラーの講演の後、フロアを交えて活発な討論がなされた。講演内容は生物系の話が多かったため、ここでの議論がその外の分野、コンピュータ・インターネット・自動車等の近代的移動手段などで、どの程度適用できるのかという議論もあった。グローバル、ローカルという用語自体の捉え方が、人によって様々であるため、議論はやや散漫な印象を受けた。同様、ここでのサイエンスという言葉も、どこまでを指すのかあいまいで違和感を覚えた。ともあれ、サムシング・ニューイズムの科学から土着の知識まで、知識を支える様々なあり方を、考えさせられたシンポジウムであった。講演者はもとより、企画運営にあたった全ての方々に感謝の意を示したいと思う。ご苦労様でした。



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