'99年秋のシンポジウム再考
工学教育改革に望むこと

三宅 苞



1.はじめに
 去る11月13日に開催された秋のシンポジウム「工学教育とSTSの可能性」は、工学教育への技術者倫理の導入とその必要性を説く札野順氏、産業技術者の置かれている隷属的状態を生産の現場から報告し、そこからの脱出可能性を探る柴田清氏、倫理問題は自由なき技術者集団の中だけでなく、広く現代社会の有りようの中で論じられるべきだとする木原英逸氏、工学教育改革の進展経過を政治的背景も含めて説明し、併せてSTSの積極的関与を提唱する小林信一氏と、講演者の論点は、互いに関連し、補いあい、あるいは対立し、参加人数の点では多少物足りなかったものの、充実した内容のシンポジウムであった。
 私は、企業(川崎製鉄)の技術研究所に、二十余年勤務してきたが、技術史・技術論など話題にさえならない技術現場に大いに疑問を抱いていた。従って、今回の工学教育改革は諸手を挙げての賛成であり、期待するところも大である。会場から発言の機会も与えられたが、改めて、今回の改革に対する要望を取りまとめてみた。

2.現代日本の技術者の分析を
 改革への要望を要約すれば、現代日本の産業技術者の判断過程や行動様式を、まず充分に観察、分析して戴きたいということである。われわれ技術者が、「自分が属する組織(会社や集団)への責任や個人的な利害を、一般社会に対する責任よりも優先し、技術者倫理に真剣に取り組んでこなかった」(札野氏)ことは紛れもない事実であるし、それが日本の高度成長を可能にする一方で、薬害エイズ事件や東海村の臨海事故など、大きな社会問題を引き起こす要因になったことも確かである。
 基本的認識としてはまさにその通りなのだが、その「会社や集団への優先」が、産業の現場で、あるいは技術者の個々人の内面において、具体的にどういう形でなされてきたか、それが発展なり、事故へなり、どうつながったかの詳細な分析は、これまでのところまことに不十分である。実態としての集団優先、それとの関係において倫理問題を論じて戴きたい。工学教育を受けて社会に巣立つところの工学系学生諸君は、殆どの場合、企業における産業技術者となるであろう。その産業技術の現場において、彼ら彼女らが「自らの為すべき行動を自律的に決定」して欲しいと望むからである。
 その観察にあたっては、「技術者」という言葉に重きを置かないで(できればこの言葉を使わないで)戴きたい。なぜなら、賢者、学者、医者、覇者から、役者、易者、忍者、走者、さらに患者、愚者、貧者、敗者に至るまで、およそわれわれが何か対象を者(しゃ)と呼ぶとき、そこに自ら判断し行動する全人的な人格を想定するからである。問題の技術者倫理も、そうした全人的存在で前提としてはじめて問えるものである。現代日本の技術者が、自らの技術に対しそのような全人的な存在でないこと、すなわち、「隷属的」で、「自由なき」関係にあることは、柴田氏、木原氏の指摘されたところである。したがって、そのような全人的存在の想定のもとに観察するのでは、実態の批判にはなりえても、その救済にはならないのではないか、とおそれるのである。(「技術員」、あるいは、「擬技術者」とでも呼ぶべきだろうが、熟した言葉ではないので、以下も「技術者」を使う。ただし、その意味に員、擬を込める。)
 観察には、何であれ、その対象を見るための視点を設定することが必要である。技術者の観察はどのような視点から行うべきか。以下の三点を挙げたい。すなわち、「お客様のため技術」、「外化のための技術」、「技術との全面対決」である。

3.お客様のための技術
 柴田氏は、製造メーカー数社の社是・社訓を一枚のOHPに並べて提示されたが(その並列提示は、社是・社訓の非神聖化においてなかなか効果的であった)、そこで共通に使われていた言葉に「お客様」があった。社是・社訓ばかりではない。先日、私のもとに出向元(川崎製鉄)よりマネジメントに関する社長指針が送られてきたが、その見出しも「顧客のために」であった。また10月末、日産自動車の大規模な再構築(リストラ)計画が発表され、大きな反響を呼んだが、それも「(座間工場の閉鎖だけでは)販売の長期低落傾向に歯止めがかからなかた」(99年10月19日。朝日)からである。つまり産業技術は、何よりもお客様のために、である。
 お客様の気に入るような製品を開発し、生産すること、これが、ハイテク、ローテクを問わず、産業技術者にとっての使命であり、課題であり、目的である。で、お客様は技術者に何を要求なさるか。より安くて、より便利で、より快適になる商品、つまり使用価値のできるだけ高い商品をである。欠陥品、不良品なんぞは論外である。ダイオキシン、産業廃棄物などの環境問題も、一旦お客様となって商品の前に立つと、関心が薄れる。お客様は技術者に、「自らが作り出す技術が、人類の幸福や利益に貢献するかどうかという価値についての判断」(札野氏)を、求めてはいないのである。
 お客様が買って下さる商品をつくること、このお客様指向は、長引く不況と世界規模の競争のなかでいっそう強くなっている。それが技術者をして「自ら判断する者」であることをますます妨げている。技術者倫理を問うためには、お客様の倫理、あるいは商品の倫理も併せて問わなければならない。

4.外化のための技術
 人間は、自らの技術を、手から道具へ、さらに機械へと、自らの外へ置くこと、すなわち、「外化」することにより、拡大、発展させてきた。現代においてもその性格は変わらない。技術の外化は、技術の基本的性格である(このような技術の発展を技術の内在性に求めるのは、「技術決定論」的な見方である。一方、技術の発展を技術の外在性に求める「社会構成主義」からの議論があるが、ここでは採り上げない)。技術の外化は、社会的、産業的技術において顕著である。臓器移植をする医者、あるいは、深海の沈没船の探査者にあっては、技術はその腕の中にあろうが、産業技術者の場合はそうではない。彼らは、自分の中にある技術を自分の外に出すことにおいて、あるいは、すでに外化された技術をさらに外化にすることにおいて、技術とかかわっている。
 であるから、「技術の当事者である技術者」(札野氏)というように、技術を技術者の中に集約させてしまうことはできないのではないか。横山輝雄氏から「技術の倫理と技術者の倫理は分けて考えるべきではないか」との発言があったが、同感である。その違いは、(外化された)技術、(外化を行っている)技術者と、「外化」という言葉を補ってみれば、より明瞭になろう。
 外化は、生産の機械化、自動化、作業の標準化(マニュアル化)、規格化、数値規制などの形で具体化される。外化されればされるほど、技術は理解可能、制御可能になり、したがって、より安全なものになる。しかし、完全な理解、完全な制御はありえない。その理解不足、制御不備が事故につながることがある。言い換えれば、われわれは、そのような事故を経験し、そこから学ぶことによって、また技術をより高度にする。地下鉄サリン事件や薬害エイズ事件はさておき、コンクリート落下や、もんじゅ事故は、技術者倫理不在というより、外化の程度が未熟であったこと、すなわち、まだ考慮すべき要因、規定すべき規格、数値があったということではないだろうか。技術者倫理は、技術の外化(の未熟さ)とも関連して論じられなければならない。

5.技術との全面対決
 技術者は、現状技術の改良のため、あるいは新しい技術の開発のため、日々、技術と取り組んでいる。それはマウンドに立つ投手に似ている。背後にいる野手や塁上の走者に気を配りつつ、神経は相対する打者に集中している。何を、どこに投げるべきか。あいてはどう打ってくるか。何としても討ち取らねばならない。失投は許されない。打者ならぬ技術との全面対決、それが技術者の現場の姿である。(付言すれば、技術が高度化し開発にスピードが要求される現代では、このような全面対決ができるのは、精神的・肉体的条件からいって、せいぜい20代後半から35歳位までである。すなわち、「生涯」、技術者であることは不可能であり、この短命さが技術者自身に深刻な問題を提供しているが、ここでは論じない)。
 技術者が「技術の目的とは何か」、「技術と社会との関係はどうあるべきか」、などについて真剣に取り組んでこなかったことは、まさに札野氏の指摘どおりである。しかし、技術と全面対決している時、技術者は、そういう倫理的問題を考える余裕はないだろう。またそれを要求することはできないであろう、というのは神経の分散は、対決能力の低下につながるから。
 「技術の目的」、「技術と社会の関係」を考えることができるのは、技術者がユニフォームを脱いだ時、仕事を離れた時であろう。そのとき、もう一人の自分となって、全面対決の自分を対自的に批判し、考察することができるであろう。倫理問題もこのもう一人の自分において思考されるであろう。そして、二人の自分の間で対話が交わされるとき、倫理問題は中心的なテーマになろう。技術者倫理を技術者が思考するためには、そのようなもう一人の自分が必要である。
 高度成長からバブル崩壊の今日まで、「定時退社などもってのほか、土日出勤もやむを得ず。一丸となっての目標の早期達成」、これが、日本的経営における技術者の行動規範であった。もう一人の自分なぞ育つ土壌はなかった。技術者倫理は、日本的経営との関係においても論じられなければならない。
 技術者の側でも、必要以上にこの規範を身につけてしまったようだ(「会社人間」から「濡れ落ち葉」へ)。まず、自らをこの束縛から解放する必要がある。小林朝子さんの「技術者をコンセンサス会議へ」という提案も、技術者がそのような状態を認識し、もう一人の自分を育てることに大いに役立つであろう。会社の上司や同僚にでなく、一般市民に向かって、自らを語ることは、その行動規範の何たるかを気付かせるであろうから。

6.おわりに
 「技術者倫理」は、日本の産業技術の暗部を照射する鋭い光線である。それは産業技術の抱える問題点、病理をくっきりと浮かび上がらせる。しかし、その照射が、「角を矯めて、牛を殺す」ものであってもいけないし、当の産業技術側が「臭いものには蓋」と、目をつぶるようでも意味がない。工学教育改革は、何よりも産業の現場で取り入れられ、生かされるものでなければならない。そのためには、今日の産業技術者についての観察が必要不可欠である。
 観察の視点として、三点を提唱した。それぞれに考察不足のところがあり、また互いの関係において重なりや矛盾もあるが、それは私の今後の検討課題としたい。
科学・技術と社会の関係を論ずることを共通の関心事とするSTS参与者にとって、工学教育改革は、「まさにビジネス・チャンス」(小林信一氏)である。と同時に、そのビジネスに与えられた課題も大きい。一人でも多くの方がこの議論に参加されるよう、心から願う次第である。




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