安孫子誠也氏の“改めて原子力「平和利用」を問う”について

野村元成



 安孫子誠也氏が前号のNewsletterに“改めて原子力「平和利用」を問う”という論説を寄稿された。氏のご指摘のうち、私には不適切だと思われる個所で簡単に指摘できる点を述べてみたい。指摘はもちろん、相互批判によってより的確な認識の一助とするためである。氏ほか皆さまによるご批判を歓迎する。

 なお、Newsletter掲載後、安孫子氏は掲載稿を改訂した原稿「JCO臨界事故と高速増殖炉開発計画」をメーリングリストに掲載された。メーリングリスト掲載稿もあわせて引用して指摘を行う。

メーリングリスト掲載稿より
> このようにして「原子力平和利用」は、わが国をも含め
>て、放射性廃棄物処理技術未開発のまま、「見切り発
>車」的に導入されていったのである。このような性急な
>事態は戦時でもなければ考えられないことであり、した
>がって「原子力平和利用」とは、実質的には「原子力冷
>戦利用」であったと言えるのである。

 この戦時ゆえの性急性という評価は、Newsletter稿ではよりはっきりとみて取ることができる。

「通常の産業技術であれば、廃棄物処理技術が確立された後に産業へと導入されるのが常である」(11ページ第3段落)

 私はこのご指摘には同意できない。「見切り発車」であったことはまったくそのとおりだが、その原因はまったく別のところにあったと見るべきではないだろうか。
 私は大学における講義で原子力を取り上げるとき、「現代科学技術(社会)の鏡」という切り口からとらえて話をしている。原子力は現代の科学技術(社会)の実にさまざまな側面を映し出しているという認識にもとづく。その一つが廃棄物へのスタンスである。
 眼中にあるのは、製造物そのもの性能(特性)とコストであり、廃棄物やそれが環境中にでた後のことは基本的にまったく視野になかったのが現代科学技術(社会)ではないだろうか。DDTしかり、PCBしかりだ。
 原子力開発において、廃棄物のことが長年ほとんど留意されることがなかったのは、原子力が典型的な現代科学技術であることの一側面とみるべき、というのが私の見方である。



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