核科学史変遷への科学論探求

浜田 真悟




0.緒言
 今日、科学のいかなる分野においても同時代に現在進行中の議論・論争を真偽判定するメタサイエンスな方法論を人類は未だ持っていない。現代社会に包摂される科学者集団の抱える問題には、巨大科学技術、科学技術と社会、などが挙げられるが、これらに含まれる問題に<万人の納得する>解決を与える事は難しい。その一方で、解決されないままにそのテリトリーを絶えず拡大していく科学の諸領域にたいして、人間悟性による俯瞰や反省的批判を加える事自体がすでにパラノイア的精神分裂状況にある。社会参与としての科学研究活動が人間としての哲学的問題(理性、価値判断、幸福、美徳)を疎外し続けている事が指摘されて久しいが、このような状況は専門主義と人間哲学の狭間でどのように止揚されればよいのであろうか。その精神的処方箋の一途として、科学史と科学哲学による科学論を探求する過程を述べてみたい。

1.序論:科学論の射程ーエピステモロジー、科学史、科学と社会の観点から
 世紀末それも二千年紀の境を迎えた現代社会は複雑かつ膨大な文明の諸問題を抱えたまま人類存続のための生産と消費を繰り返していかなくてはならない。現代においてはこの生産と消費は、社会の中の幾層ものインターフェースによって、技術と科学に深くかかわりあっていると考えられている。
 エネルギーは人類が消費するために生産しなければならないものであり、摩擦によって火を熾すというテクネーとエピステメーから、沸騰する水と蒸気の熱力学を動力に変換する系統的科学知識へ、そして水力・火力・原子力発電への発展をみた。
 そして今、エネルギー問題は地球環境問題と表裏一体となりつつある。
 本稿では、このエネルギー・現代科学の今日的問題を核科学史の変遷として捉え直し、これに深く関わっている原子力、その一端を占めていると思われる核科学の応用最新技術−ルビアトロン−を例として取り上げる。がしかし、このことは直ちにエネルギー問題の解決策を提示するものではない。筆者の手法は、むしろ実問題からは少し離れて、レトロスペクティヴな位置から掘り起こし始めることにある。科学史と科学哲学、そして科学社会論の融合的産物である科学論を、この一例を題材として論じる事が目的である。

 20世紀は科学技術の世紀であったと言われる。このことの歴史的意味付けには、当の科学者や研究者が現場で享受している科学技術のための環境の利便さ・幸福さをはるかに超える哲学的困難を必要とするであろう。が、この科学哲学・科学史解釈上の難問はひとまず棚上げにして、しかしこのことを意識しながら、同時代に現在進行形の科学的行為を自己検証する事がどこまで可能であるかを試みたい。
 なぜならば、科学と科学に携わる営為を至上の価値であるとする文化がこれほどまでに支配的でありえた、そしてこれからも有り続けるかどうかを検証するには、生半可でない−90年代以降の世界政治の急速な転回によって不用意にも溶解せしめられたある種の強靭な哲学−歴史理解を必要とするからである。
 なるほど、ギリシア文明に源流をたどる科学哲学の営みが科学的発見との同時進行であったことを科学の栄光とし、近代以降の科学革命のもたらしたメタサイエンス的な知見の獲得こそが科学研究の目指すべき地平である、との見解には抗しがたい魅力がある事を認めざるをえない。[1] そこには、形而認知にたいする<メタ>作用を前提とする認識論=エピステモロジーを中核に据えた、科学哲学と科学史、科学論のすそ野が広がっており、このフィールドを土台にした思考に対する哲学的作用なしには、いかなる科学的行為も<いかさま>批判の謗りを免れないだろうからである。すなわち、理性批判の手続きを経ずして垂れ流され続ける「科学的情報」が、いかに我々の科学的理性の思推を汚染し、時として巨大な虚構物を盲目に追求する愚へと導いているかに、改めて思いを至らしめたい。[2]

 デモクリトス以来の原子論をひきあいにだすまでもなく、現代物理学の求める基本粒子の構造論の研究は、数理科学に存するある種の哲学的ないしは認識論的困難を抱え込んだまま、思考の経験主義的進展を実証と見なすことによってなされてきた。[3,4,5] しかし、高エネルギー物理学における実証主義の限界はこの分野のサイエンスを社会状況(政治・経済・軍事)の妥協の産物として、極めて俗悪な記号論的融解へと消失せしめる危険性が潜在的にあることを明らかにした。[6] 原子核物理学においては、核図(Nuclear Chart)情報の精密化を目指した存在領域に対する知見の標準化作業が行われつつあるが、原子核構造の多義性・多層性を反映して、この分野の海図は2次元以上の広大な領域をもつことが指摘されている。[7] この複次元の領域にこそ、現代精密科学の<メタ>である数理哲学の思想的展開が図られるべきであるが、そのためには近代以降の精密科学の系譜をたどりながら丹念に検証していく必要がある。
 一方、核をめぐる現代技術と社会の状況は、刻々と変化しつつある。
 原子力エネルギーサイクルを支えるはずの個別技術による3要素体系、すなわち燃料濃縮工程、高速増殖炉、使用済み核燃料処理のいずれもに重大な事故が生じたことは記憶に新しい。スリーマイル島−チェルノブイリに続く<終末論>的光景が日本の東海村において繰り返されたわけであるが、もともと軍事と密着しやすい体質を持つこの分野が、この事故をきっかけとして戦後以来未踏の緊張関係に引きずり込まれる可能性は否定できない。<終末>というのは単なる言葉じりではなく、世紀末は同時に新世紀の到来でもあるのだから、アルファとオメガの連鎖をどこかで修復しなければ、−放射線によるDNA鎖の破損とその誤修復が生物学的変異をもたらすように−、我々の社会と科学・技術の関係を奇形させてしまうであろう。
 これは、先に述べた生産と消費の関係にからめて暗喩するならば、<分析Analyse>力を欠いた<総合Synthese>作業がいかに<経験知プロネーシス>構造上の有機的分解を促進しやすいか、というアリストテレスの「形而上学」にならった黙示録的問題にもなりうる。[8] また、ここで言う<分析Analyse>と<総合Synthese>とは、カント的認識論の<直観知Intuition>と<悟性entendement>という図式を援用して言うならば、<知見Episteme>と<利用知techne>である。前者は<前験的 a priori>に、後者は<後験的 a posteriori>に獲得されるものであり、この二元論的世界の橋渡しをするのが< a posteriori な総合知はいかに存在するか>という、近代以降の科学哲学がかかえた問題<科学作用science>であった。そして近代科学革命以降の科学技術制度の大幅な発展は、このカントの図式論<shematisme>の現象化であり、科学は a priori に認識 Episteme の精度をたかめて自然を分析 Analyse し、技術は a posteriori に総合物 Synthese を生産する力を高める、という車の両輪役を果たしてきた。近代科学技術にとって、これ以外に制度化の方法はなかったのである。[9] がしかし、歴史学を離れたところでの疑問が生じる。これは悪しき反復図式にもなりうるのではなかろうか、もしそうならば、どうすれば危険性を克服できるであろうか、と。
 この一例として、OECDメガサイエンスに代表される生産と消費のための科学技術開発がいかなる結果をもたらすであろうか、という設問を過去の事例に求めてみよう。考えてみると、ギリシア科学のエートスが費えたのもローマ文明という巨大な消費技術による文明の拡大の末であったのではなかろうか。[10]
 そういう特殊解を設定した上で、そこから科学史と科学論の検証による未来へ適用可能な一般解を求める技法が得られるであろうか。これは、解の満たしそうな群論的性質の問いであろうか、それとも線形・非線型を問わず方程式の近似解の精度を高める技法の問題であろうか。あるいは、この過去への射影が熱力学的にゆるされない時間反転操作だとすると、科学史から近未来を予測する方法論を得るには、<神がサイコロをふる>行為を模倣することが必要であろうか。
 ともかく、そうした考察を巡るなかに科学論はあるらしい。この科学論を求めて、現象論的科学行為と反省空間の狭間を確認する旅路にでた。その航海日誌の1ページ目が本稿である。
<つづく>
2.熱・統計力学史と原子論の系譜−核科学前史
3.近代科学移入と科学社会論
4.ルビアトロンがやってくる
5.核科学史変遷への科学論

文献
[1] 文明の中の科学、村上陽一郎、青土社
[2] 科学革命の歴史構造(上)、佐々木力、講談社
[3] 観測の理論、町田茂、岩波書店
[4] 物理と認識、W.パウリ、講談社
[5] 科学と方法、H.ポアンカレ、岩波書店
[6] 大型装置科学の科学論、平田光司、総合研究大学院大学
[7] 原子核談話会、日本物理学会
[8] 問われる科学技術、小池澄夫、岩波講座「科学・技術と人間」
[9] Science et Societe, Benoit Lelong, Paris-7
[10] 民族移動と文化編集、大貫良夫、NTT出版




[戻る]
Copyright (C) 1999, STS Network Japan
All rights reserved
For More Information Contact office@stsnj.org