'98 秋のシンポジウム 『医療問題は科学論で語れるか』報告
隠岐さや香 (東京大学)

 1998年秋のSTSNJシンポジウム「医療問題は科学論で語れるか」が開催された。
 これまでのシンポジウムでは、科学論一般を広く論じるようなテーマが多かったのだが、今回はテーマを医療問題に集中させることで、視点を変えた議論で科学と社会の関係のありかたに切り込みたいという意図の下、5人の講演者に報告をお願いした。議論の中心となったのは、現在個別のフィールドで様々に行われている生命倫理や医療社会学といった医療論と、科学論の接点はあるのか、またあるとしたらどのようなものなのかということであり、質疑応答・総合討論も活発に行われた。以下にその簡単な報告をしたい。
 また、本報告文において不十分な点、間違いなどがあれば、それは全て筆者の責任である。

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 まず、佐藤純一氏(宮城大学)からは、現場の医療に携わりつつ医療問題を考えてきた立場からの科学論、医療社会学、医療人類学などへの批判と期待、そして問題提起などを交えた報告がなされた。
 まずはじめに氏は、「医療問題という問題の設定は出来るのか」と問いかけ、問題が誰によりどのような文脈で設定されたかを分析する視点の再確認を促した。次に氏は、医療についてのディスクールをめぐる時代性についてふれ、1970年代のバイオエシックス登場以来続いている現在のディスクールの成立が、バイオエシックスなど支配的な理論のパラダイムシフトによるものではなく、医学による介入の質的・量的変化と規模拡大に対する社会の側の批判を受け、医学・医療の側がその反動として自らの正当化・脱批判化を行おうとしたことによると述べた。すなわち、医学史や医療人類学、医療社会学、生命倫理など、知的イデオロギーを総動員することにより医療・医学の自己正当化が試みられ、そこから医学を語る言説のダイナミズムが生まれたのである。氏によれば、現在の医療をめぐる言説は、「バイオメディシン」(Biomedicine)、「レイマン」(Layman)、「メディカルヒューマニティーズ」(Medical Humanities)、「医療現場・臨床家」の四つの立場あるいはパワー集団に大分され、それぞれが自分の立場から互いを利用しあっているという貧困な状況である。集団相互による排他的もしくは傍観者的態度がこの状況を生み出しているのであるが、氏はこれら言説自体を対象として社会構成主義的に分析し、切り崩す試みが科学論から出てくることを期待しているという。
 氏はその他にも、医学と医療の区分をどう措定するか、医療と医学の中心と周辺の認識の必要性、近代医療のみに偏らない、非近代医療をも視野に入れた分析の重要性など、様々な点を挙げた。そして、医療は人間が関わる実践行為であり、価値的なものであるがゆえにコミットメントの問題が切り放せず、それを対象として扱う研究者自体がある集団の価値を代弁するものとしてレッテルを貼られてしまう危険性が常に存在すると述べた。氏は、この危うさを認識した上で科学論がどのように医療に関われるのかを考えていきたい、として報告を終えた。
 次に、蔵田伸雄氏(三重大学)の報告、「医療問題の全てを語ることはできない、また『バイオエシックス』も医療問題のすべてを語ることができるわけではない、しかし『日本的な生命倫理』はもっと問題だ」に移りたい。これは、日本に特殊な生命倫理学における議論の貧困さを指摘し、科学論におけるいきすぎた相対主義の視点を、特殊日本的な形で生命倫理学に持ち込むことの危険を論じるものであった。  まず第一に蔵田氏は、科学論と生命倫理との関係を概観し、「科学論」は「医療問題」の全てを語るだけのボキャブラリーを持っていないとした。それには二つの理由があり、まず一つとして、医療は近代科学としての「医学」ではなく、むしろ「技術」「実践」「客商売」といった側面を多分に含むものであるということ。二つ目に、医療・医学は特に人間を対象にするものであるということによる特殊性の問題がある。
 次に氏は、主に英米圏で「バイオエシックス」と呼ばれている分野が、日本のいわゆる「生命倫理」とは異なり、プロの倫理学者による、自由主義論、功利主義、カント的人格原理等、倫理の原理原則を「応用」する倫理学であるということ、それゆえに「原則主義的」すぎて現場の医療従事者が直面する問題には役立たないと陰口をたたかれていることなどを説明した(このバイオエシックスに対し、「臨床倫理」(Clinical Ethics)が現場のケースへの具体的解決策を提示する試みとして対置されている)。そして、氏によれば、それが日本に移入されるに及び、ある種の科学論的相対主義と結びつくことで、「西洋的・キリスト教的」「権利中心主義的」「自由主義的」英米流「バイオエシックス」は日本になじまないという問題含みの推論でもって受けとめられているという。すなわち、科学論が明らかにしてきた「価値観」・「文化」の相対性が患者の「権利」にまで敷衍され、日本における患者の権利に対する軽視を、「日本的なもの」の名のもと正当化もしくは隠蔽するような「日本的生命倫理」が堂々と提唱されているのであり、氏はそれに強い懸念を表明した。そして締めくくりとして、価値観の相対化を支持しつつも、「権利」は人々を苦痛や不安から救うための武器・手段として普遍性を持つとの見解を表明し、その上で公共の議論を通じて科学技術をふくめた医学を評価するべきと訴えた。
 立岩真也氏(信州大学)の報告「闘争と遡行」は、自らの研究プロジェクトにおいてこれから取り組もうとする二つの方向性に関するものであった。その一つ目として、外部からの医療社会学の試みがあげられる。すなわち、医療をサービス業として捉え、医療の消費者、客の視点に立った医療社会学を試み、他の第三次産業と医療との、現状における差異性を認識・分析しつつ、それが必然的なものであるかどうかを考察していきたいとするのである。この視点には、消費者運動や社会運動を扱ってきた氏の経験が生かされている。
 もう一つの方向は、倫理に関するものであり、より具体的には、氏が著書『私的所有論』の中で展開した自己決定権をめぐる問題である。氏は、自己決定権については蔵田氏とほぼ同意見であるとし、医療においても普通のサービス産業と同じ程度の消費者主権が行われてもいいが、現実にはそれが阻害されていること、そしてそれは何故なのかを調べてきたと述べた。そして、基本的には自己決定を擁護するシステムを作っていきたいとしているが、それと同時に、自己決定ではすまない問題の存在を認識しており、このことと前者とは矛盾しておらず、両立しうると論じた。氏としてはその点を踏まえた上で以下のことを考えていきたいという。すなわち、何らかの不可知性・不変性の受容を前提として成立している我々の社会において、(例えば科学技術などにより)その不可知なもの/不変なものが可知/可変なものとなった場合、我々はそれをどう考えるのか、そのとき社会はどのように変容し、我々はそれをどのように受け入れる、もしくは受け入れないのか。さらに、我々がそのように態度を決定する際の根拠はどこにあるのか。QOLの問題や出生前診断など、今まで無かった所に生じた問題で、無条件の支持も一方的な放棄も出来ないような性質のものについて、その成立した文脈を遡行的に見ていくことにより、自己決定をどのように位置づけるべきかを考えていきたい。以上が研究の二つ目の方向であり、先に紹介した一つ目と可能な限り両立させつつ探求し続けたい問題であるとして、氏は報告を終えた。

2
 次に、休憩を挟んだ後、ゲストのお三方の発表に応答する形で、STSNJメンバーの二氏の発表が行われた。
 まず、松山圭子氏(青森公立大学)の報告が行われた。氏の報告は二部構成になっており、前半は「医療問題を科学論で語る」行為が必然的にはらまずにはいられない二つの相反する方向性についての考察であり、後半は科学論における医療問題の扱いについての反省であった。
 まず、「医療問題を科学論で語れるか」という問いに対しては、二つの方向の語り方に分裂していると指摘する。すなわち、「医学が科学的でない(evidence-based methodに基づいてない)からいけない」(いわゆるサンタ論法「使った/効いた/治った」など)という方向と、「医学(医療)が科学に走るのがよくない」という批判の方向である。医学が科学的だとすると、医療問題を科学論で語るとは、科学そのものの問題を論じることになり、他方、非科学的であるとすると、科学にさせられないものは何かと論じることになる。氏はSTSの立場から、そのときどきに応じて科学擁護をする自分と科学批判をする自分とが存在し、従って医療問題に対しても、上記の二つの方向の批判を状況ごとに都合良く使い分けざるを得ないと述べる。そして、先の立岩氏の挙げた自己決定の問題同様、そうした二つの相反する態度が両立することは必ずしも矛盾ではないとする。
 後半においては、科学論の著者やSTS の教材が、身近で人々の関心を引きつけやすい例として医療問題をよく扱っていることを指摘し、その問題点を述べる。すなわち、evidence-based methodを基本とする近代自然科学は、基本的に、「たまたまわが身に起こったこと」に関わる医療と相いれない部分があるのに、その点を考慮せず都合のいいときだけ「科学論」の身近な例として医療を持ち出す傾向が科学論者にあったのは否めないというのである。
 最後に締めくくりとして氏は、科学的な正統性のオーラを纏った医療の言説による刷り込みが人の一生を通じて行われている現状において「自己決定」がどういう意味を持つかということに言及し、科学としての医療として語っている部分で、実際に科学とは関係ない要素が入っているという事実が医療問題の中で一番問題であると訴えた。
 さて、シンポジウム最後の小林傳司氏(南山大学)の報告「医療問題と科学論--コンセンサス会議の経験から」は、今までの四氏の発表を総括すると共に、科学論者としてコンセンサス会議に関わってきた立場から、科学論のあり方をも見直そうとするものであった。
 氏の主張は明確である。「科学論で医療問題を語る」のではなく、医療でなされている議論を科学にも適応するべきだというのである。すなわち、現在の科学はScience-based technologyやR&Dの発展により社会に直接インパクトを与えるものであり、必然的に科学と社会との相互作用圏が生じている。そしてそこでは、科学としての医学が医療の現場に用いられた際に生じる問題と同種の問題が生まれている。それを解決するためには、従来の自律的なクローズドシステムとして科学を捉えることをやめ、異なる専門家集団が共存し、互いを監視しあいながら開かれた議論を行えるような領域を整備する必要があるのである。コンセンサス会議はそのための試みの一つであり、従来の「専門家が素人にわかりやすく教える」というのでは無い形で、素人の市民、専門家が対話し、それぞれの偏った立場を開かれた形でぶつけ合うための場であった。会議は一応の成功を収めたが、結果のフィードバックの困難さや素人参加者の代表性、会議自体の正統性の問題など新たな課題が残された。中でも氏がとりわけ重要と考えたのは、この会議を組織した事務局としての「STSとは何か」という立場をめぐる問題であった。氏は、今後は科学においてもこのSTSのように、専門家でも素人でもない第三の立場の専門家、セカンドオピニオンの提供者を育成して必要があると訴え、NGOやNPO、大学などがその担い手となりうることを示唆する。そして同様な「第三の専門家」が、医療の現場では科学にやや先駆けた形で模索されつつも、まだ完全には整備されていないことを指摘して報告を締めくくった。

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 以上、5名の報告の大枠を要約させていただいた。以下では質疑応答における議論も踏まえ、本シンポジウムにおいて得られた成果と今後に残された課題について、出席した一報告者としての感想も含めてまとめてみたいと思う。
 まず、本シンポジウムの意義として挙げられると思うのは、何よりも、科学論/STSと医療問題が出会う場を作ったということだろう。双方を付き合わせることにより指摘されたのは、医療問題と科学論の対象とする諸問題のあり方とが相似性を増す傾向にあるということであった。すなわち、科学・技術の関係は医学・医療の関係に近いものとみなすことが出来、科学は技術を介して、医学は医療を介して社会との相互作用圏を持つ。そして、その社会との相互作用圏の部分で、専門家と位置づけられる人々とそうでないレイマンとの対話をめぐる問題を抱えており、これに関しては医療問題における議論の方がより長い歴史と経験を持っているということである。
 このことから、医療問題における議論の経験を科学論に活かそうという意見(小林氏)が出たが、医療問題に関わる諸言説をメタのレベルで切り崩すような大きな役割を科学論に期待する佐藤氏のような立場からは批判がなされた。佐藤氏の批判は、医療問題におけるモデルを盲目的に科学論に取り入れようとすることへの懸念の表明であり、具体的な例として、医療現場のヒエラルキーに基づいた専門家集団のあり方を、異なる専門家集団の共存モデルとして理想視することの問題性などを指摘した。
 また、サービス産業として医療を捉えるという医療社会学的な試みを科学にも応用したらどうかという提言(立岩氏)もなされ、それに対しては、科学論においてもスティーブ・フラーを中心に社会認識論という形で科学技術をサービス・財として捉えなおす同種の試みが進行してることを紹介する声が会場から出る(平川氏)など、医療問題と科学論それぞれにおいて既に類似のアプローチによる取り組みが行われていることを再確認することもできた。
 しかし、上記のような議論は同時に、医療問題と科学論両領域間の対話がまだまだ第一歩を踏み出したばかりであるとの印象を持たせるものでもあった。本シンポジウムは基本的に生命倫理、医療人類学、医療社会学、社会論など各領域からの報告者が、それぞれの立場表明を行い、これから議論を積み重ねていくための準備段階を成すものであったように、思われる。すなわち、今回の試みは医療問題と科学論が互いを知り、良い影響を及ぼしあう可能性、もしくは共同作業を行いうる可能性を切り開く第一歩であったと筆者には感じられたのである。そして、そのために今回なされるべくして欠けていた作業と筆者には思われたものを一つあげるとすれば、それは、「科学論」、「STS」、「医療問題」という各タームが示す領域の射程をめぐっての、報告者間にも見られた諸見解の不一致にもう少し光をあてるという作業であろう。報告においては、「『科学論』では自然科学としての医学は論じられても、科学以外のものを含む医療を論じることは出来ない」(蔵田氏)という意見があり、それに対し会場からは「科学を扱う『科学論』ではなく、社会・技術・科学の相互間系を広く論じようとする『STS』ならば社会と医学の相互作用圏で生じるところの医療問題を論じることが出来るのではないか」(安孫子誠也氏)という発言が出た。この発言は時間不足もあって、それ以上議論を深める機会を得ずに終わったのだが、一般に日本において科学論・STSの知名度が低い領域であることを考えると、医療問題を比較対象とすることで、科学論・STSの各射程について考え、報告者にも会場にも理解を深めてもらうことはそれなりの意味を持つのではないか。
 いずれにせよ、医療人類学、医療社会学、生命倫理、科学論の間において、これからも同種の対話の場が設けられることは非常に望ましく、それぞれの立場表明の段階から一歩前進して、例えば科学論で医療問題を語る具体的なアプローチとその結果を報告するなど、実りある成果を得られる場が将来に実現することを期待するものである。



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