科学技術者倫理の落し穴
木原英逸 (国士舘大学 政経学部)


 

 1998年12月21日付け『日本経済新聞』に、「国際的に通用する技術者育成・理工系大学の質を評価」という報道がありました。大約は、理工系大学を対象にした大学教育の品質保証制度として、「日本技術者教育認定機構」という認定制度が発足するということ。産学官の技術者の集まりである日本工学会と日本工学教育協会が、この機構を任意団体として、この6月に発足さすべく準備に入ったこと。教育内容の評価基準としては、専門知識だけでなく、国際的なコミュニケーション能力、技術者倫理教育も含まれること。認定制度発足の背景には、同様の認定制度を持つ海外でも即戦力となる技術者教育を求める産業界の声があることなどです。
 重要な事例だと考えます。しかし、ここにもまた、微妙な問題がありそうです。
 まず、言われている「日本技術者教育認定機構」が、アメリカの「工学技術教育認定委員会 ABET」の日本版として構想されているとすれば、それは何よりも、特定の職能団体による品質保証の試みだということになるでしょう。 事実、ABETは、そのホームページで次のように自己規定しています。 http://www.abet.org
 The Accreditation Board for Engineering and Technology(AB ET) is primarily responsible for monitoring,evaluating,and certifying the quality of engineering,engineering techno logy,and engineering-related education in colleges and uni versities in the United States.
 しかしここでも、誰が誰に対してどのような品質を保証しようとしているのかが問われるべきですし、事実そこには様々な可能性の組み合わせがあります。
 誰が、という点では、技術者、エンジニアの職能集団がと、一口に言っても、その内実は千差万別ということがあります。『技術と経済』 1998.4の大橋さんが言うように、医師、弁護士などと同じく、公認の機関が認定し独占的な業務権が与えられるプロフェッションのひとつと認められるエンジニア、倫理コードを持ち、それを機能させる努力をするその集団、ABETを支えてきたのがこうした専門職業・職能集団としての専門学協会だというのなら、そうしたものはいま我々の社会にはないわけです。では、よく言われるように、我々もそうした自律した職能集団を作るべきなのでしょうか。それ以外に道はないのでしょうか。敢えて問いたいと思います。そしてこれは、専門家諸集団と非専門家諸集団・社会との関係、その間を調整する制度をどう作るかという課題の一つに他なりません。
 今回の「日本技術者教育認定機構」は、日本工学教育協会と日本工学会が共同し、大学・学協会、文部省・科学技術庁・通産省、経団連も参加して検討委員会を発足させたということです。おそらく、この陣容はアメリカとはかなり違うものでしょう。その上で、この機構は技術者教育プログラムに認定を与えることによって、職能集団としての技術者集団を我々の社会に形成しようというのでしょうか。むしろ事は逆で、あくまでも職能集団がその存続のために一定の教育プログラムを必要とするということでしょう。とにかく、教育プログラムの認定「だけで」職能集団としての技術者集団が形成されることはないでしょう。
 では、件の「日本技術者教育認定機構」は何を目指すのでしょうか。また、差し当たり何ができるのでしょうか。ここで、事は、誰に対してどのような品質を保証しようとしているのか、という点に関わってきます。産業界、企業、雇用主に対して、仕事に適した知識・能力を備えていることを保証する、つまり、技術者の資格認定制度づくりを目指しているというなら、よく分かる話しです。ボーダレスの時代、資格を持たない日本の技術者が制度的な違いの犠牲となることのないよう、国際標準であるアメリカのABETのそれに対応する技術者資格を立ちあげる必要を主張する、上記大橋さんの危機感も、この文脈で理解できます。実際、ABETの背景にも、新卒でも数ヶ月以内で独立した仕事に責任を持たされるため、卒業生の知識・能力を保証する必要のあるアメリカ産業界の要請があるようです。そしてこの点では、周知のように、我が国内においても、大学が素材、可能性としての人材を企業に引き渡し、終身雇用を前提とした社内教育によって一人前の技術者に育てるという、工学教育が終わろうとしており、企業は、能力・資格をすでに備えた人材を求める方向に動いているわけです。この流れの中で、技術者の資格認定制度づくりが急がれるのは、よく理解できます。それは何よりも、技術者が自らの地位を守り維持するために必要だからです。しかし、繰り返しますが、この事だけでは、技術者・専門家諸集団と社会との関係を、従来とは異なる方向に変えていくことにはならないのではないでしょうか。
 いや、だからこそ ABET基準に合わせて、技術者倫理教育を資格認定の要件にしようというのでしょう。事実、ABETは、そのホームページで次のようにその目的を述べています。
To serve the public, industry, and the profession general ly by stimulating the development of improved engineering education;・・・
仕えるべきは、企業・雇用主だけでなく、公共・公衆でもあると。そして事実、アメリカの技術者諸協会の倫理規定は、むしろ、「専門職の義務の遂行において、公衆の安全、健康および福利を最優先する」よう要求しているのです。 しかしです。このような技術者倫理を学び、身につけることによって、技術者・専門家諸集団と社会との関係は変わるのでしょうか。変わるでしょう。しかし、事と次第そのやり方によっては、それは専門家支配を強化するだけのものになるかもしれません。 L.Winner が Citizen Virtues in a Technological Order という論文でこの点を指摘していますので、それを手掛かりに考えてみましょう。
 ウィナーは、差し当たり、哲学の実学的転回の下、生命倫理、環境倫理、コンピュータ倫理など、「技術の倫理」を展開している昨今の哲学者たちを念頭においていますが、職能集団としての技術者集団が持つべき技術者倫理規定が、誰によってどのように作られ、どのような状況の下で技術者に学ばれてゆくのか、その帰結を考える上でも、示唆する所があると思います。
 さて、新技術の導入が引き起こす社会的選択に直面して、今日の社会は、広く承認された道徳判断の型・原理を欠いています。こうした欠如状態を解消しようと、現代の哲学者たちは「技術の倫理」を展開します。しかし、おそらく、個人から出発する近代哲学の伝統という彼らの背景ゆえでしょう、そこでは例えば、新技術を開発したり、使ったりする人の「権利」とそれに伴う「責任」はいかに、というように、技術を扱うに当たっての「個人の」行動の善悪を論じることで、もっぱら技術の倫理だとしています。甲羅に合わせて穴を掘っているわけです。
   しかし、こうして問題を「個人」に限ることによって、そうした問題を抱えた個人に解決を与えることのできる、価値についての専門家 values experts として、哲学者たちは機能することになります。「あなたが抱えている問題の原因はあなた個人にある。しかし、あなたがいま問題を抱えて困っている以上、あなたにそれを解決する力はない。ゆえに、解決を与えることができるのは他の人、すなわち私だ」ここには、かつてイリイチが指摘したこのメカニズムが働くのです。そしてこれは、価値の専門家が、善悪について、技術者を含むそれについての非専門家を操作する(すべし)という意味で、専門家支配を新たに付け加えていることだというわけです。事実、既存の専門家/非専門家関係、専門家支配に基盤を置く今日の国家は、こうした形での「技術の倫理」研究を現に今求めており、研究資金・人材も流れ込んでいます。哲学者たちも、やっと手に入れた自らの現実への影響力を、心地よく思っているでしょう。だが、しかしなのです。
 では、こうした専門家支配補強の道を避けるにはどうしたらよいのでしょうか。ここで、価値の専門家なるものが成立しうるとするのは、そもそも価値・倫理の「普遍性」を前提にしているからではないかと考えてみます。事実、哲学者たちは、それを前提にして、「一般の人々」や「(一般)社会」について気楽に語り、そこで、自分たちが主張する判断原理が支持されていることを疑わないようです。しかし、価値についてもと言うべきか、専門家の判断の普遍性など現実には成立していません。ここでも、普遍性を根拠に、専門家集団内での正当性を外挿して、社会での正統性と等置することが、所を変えて、専門家支配の支えになっているわけです。事は、科学技術者諸集団に限らず、哲学者集団にも起こっているのです。
 したがって、それを避ける道も似たものになります。様々に異なる資源、知識、目的をもった社会集団間で絶えずずれながら行われる価値判断、この互いに絶えずずれてゆくものをまた絶えず合わせ、そこに共通の価値を作って行く、そうした社会的、制度的メカニズム、それをモラル・コミュニティと言ってよいなら、それが、どこにどのような形で存在しうるのかを、問わなければならないでしょう。そしてこれは、技術の「倫理」というよりも、技術の「政治(哲学)」の問なのだ、というのが、ウィナーの指摘です。
 これが示唆するものは何でしょうか。職能集団としての技術者集団が持つべき技術者倫理規定は、価値の専門家としての哲学者たちによってつくられるべきものでもないし、ひとつの専門家集団としての技術者集団内でつくられるべきでもない。広く多様な社会の政治的討議の中でつくられ、その下で学ばれるべきものだと、平たく言えばそういう事でしょう。当然といえば、当然のことなのですが、これからの「日本技術者教育認定機構」の検討過程の中で、この当たり前ではあるが、困難な仕事がどこまで成されるのでしょうか。懸念なしとしません。また、この困難が理解されてないと、技術者倫理規定とその教育プログラムに対する過剰期待が、一転、それらに対する不当な幻滅にもなるでしょう。今回の機構検討に先立って、以上のような問題が公開され検討されることが不可欠だと考えます。

1999.1.8

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