専門性の擁護−−科学技術に対する市民の責任とは何か
 国士館大学 木原英逸

 テクノクラシーへの危機が言われてきた。科学技術者をふくむ専門家を信頼すること、そのことが専門家への従属を招き、自己決定権を骨抜きにして、民主政治を危うくしている。したがって、我々の社会が民主的であるためには、専門家を信頼しそれに任せることをやめなければならない。そして専門家に任せることをやめるために、科学技術者との間の専門知識のギャップを少しでも少なくすることが必要だと言われてきた。そうして、専門家の持つ科学技術情報が公開されればされるほど、また、それを理解できる非専門家である人々のリテラシーが高まれば高まるほど、社会は民主的になると理解されてきた。
 しかし、社会が民主的であることと専門家システムを信頼することとは、なんら排除し合うものではない。なすべきことは、むしろ、どの様に専門家かシステムを組み直せばそれによって我々の間での社会的信頼関係を民主的な形で維持してゆけるかである。議論の混乱を正すために検討すべき課題は三つある。信頼するとはどういうことか。専門家システムとは何か、専門家とは誰のことか。民主的であるとは自己決定的であることだと言うときのその意味、である。
 まず、テクノクラシー論をもっともらしく見せている理由のひとつに、信頼の不適切な理解がある。専門家を信頼するということが、たとえ限られた事柄についてであっても、それについて全てを任せることであるかのように語る。そのことが、専門家への信頼がその限りで専門家への従属を招くという、その議論を支えている。しかし、信頼とはそもそも全てを任せることではない。幼児が親を、また誰もが日常の習慣的行為のなかで相手を信頼しているという、信頼の基本的場面にさかのぼれば、事実がそれを示している。社会をつくり生きていくには、そうした他人の行動を基本的に信頼し、その信頼が満たされることが不可欠である。そして、我々がそれを基本的に信頼するのは、実は、まさに他人の行動がそもそも不十分にしか理解しえないものだからである。信頼は、十分な情報がないところに現れる。その働きに完全に精通しているならことさら信頼する必要もない。不完全にしか理解しえないからこそ信頼するという逆説がここにある。しかしゆえに、その信頼は崩れさる。信頼とはつねに、そうした自体への懸念、疑いと一体なのである。だからこそ、他人への信頼が本当にそれに値するものか評価しチェックして、それを維持してゆく様々な工夫を欠かせない。その意味で、あるものを信頼するとは全てを任すことではない。信頼とは任せることと任せないことの間にある。
 今日の我々の社会生活を可能にしている専門家システムへの信頼も、信頼(関係)である以上、その点は同じである。しかし、そこで我々が信頼しているのは、そうした社会関係の中にいる個々の人物とその行動ではなく、それらの人々が用いる専門技術であり知識である。つまり、標準化された技術・知識とそれに基づく社会関係、その意味で広範囲に拡大しており、したがって自ら居合わすことのない社会関係への信頼である。しかもまさに標準化が進むことによって、技術・知識の生産の場も拡大し、専門家システムを支える技術・知識の量は膨大なものとなっている。そして、我々はこの膨大な、それゆえ自らほとんど知りえない技術や知識を信頼している。この二重の意味で、専門家システムへの信頼もまた十分な情報がないものに関係して現れている。事実誰もが限られた事柄についての専門家でしかない以上、誰にとっても専門家システムは不透明である。ただし、自らが専門家としてその一端を担う専門家システムと、自らは非専門家としてその外にある専門家システムの間に、透明なシステムと不透明なシステムを分ける境はない。すべて専門家システムは相互に依存、浸透、影響しあってつながっており、それゆえ誰にとっても、自らが担うシステムを含め総ての専門家システムがそれぞれ程度の違いこそあれ不透明である。そして情報の不透明さがこうした形であるからこそ、我々は自らもその内にある専門家システムのつながりを信頼するのである。このつながりについて十分な情報を持つものとしての専門家などどこにも居ないからこそ、誰もが専門家システムを信頼することにかけていると言う逆説がここにもある。ゆえに、こうした専門家システムへの信頼も当然崩れ得る。まただからこそ我々は、この専門家システムへの信頼を評価しチェックして、維持してゆく工夫をも欠かさない。ただしその仕方は、他人への信頼を維持する場合とは違ってくる。それは、専門家システムの働きを維持してゆくようなチェック・評価システムをもう一つそれに重ねることである。そして誰にとっても、自らが担うシステムを含め全ての専門家システムが程度の違いこそあれ不透明である以上、こうした評価システムも、総ての専門家システムに内部、外部からかぶせられている。専門家システムは、その内部、外部から重なってくる、異なる基準に基づく多様な評価システムなしではもともと機能しないのである。それは、そもそも信頼と懐疑が不可分であることの現れでもある。
 我々は絶えず専門家システムに評価システムを重ねてきた。それ以外に我々にできることなど初めからない。そして、そうした評価システム自体がもう一つの専門家システムとさえなって、さらにそれが評価システムを必要とする。専門家システムへの信頼とは絶えざる評価、チェックと不可分なのである。である以上、専門家システムを信頼することがそれへの従属を招くとは言えない。ゆえにテクノクラシー論は誤りである。結局、我々の社会が民主的であるために専門家システムへの信頼を否定する必要など何もない。事は逆で、我々の社会が民主的であるために今なすべきことは、まず専門家システムを確立することであり、それへのチェック・評価システムの相互ネットワークをさらに拡げ強めることである。こうして専門家システムへの信頼を確保し維持することだけが、従属を避ける途である。
 にもかかわらず、科学技術を含む専門家システムへの今日の不信の高まりはなぜか。一因は、民主的すなわち自己決定的とは何かを巡る混乱にある。全情報が開示され、それを理解した上での自己決定だと、そう理解する限り、民主的であるためには専門家システムを信頼しないことだとの結論になるのは、見やすい。専門家システムを信頼するのは情報の不透明さがあるからである。また、専門家システムを信頼することがそれへの従属を招くわけではない、という先の結論も受け入れ難いとなる。幾ら評価を重ねたところで、情報の不透明さが消えることなどない。である以上、自己決定は制約されており、従属を招いていることになるからである。
 問題は自己決定とは何かである。我々の社会が民主的であるとはそこに従属関係がないことであり、それは即ち、自己決定に制約がなく、自己決定的であることである。仮にここまでは良いとする。ところが、自己決定を真に保証するのは、全ての情報が理解できる形で開示されるときであり、のた、こうした情報の完全な開示が、我々の社会における信頼関係の確立と不可分である、ととるところに混乱が生じる。そうではなく、むしろ情報の欠如が我々の社会的信頼関係を成立させているのであり、そうした信頼関係の維持、確立には、それへの絶えざる評価、チェックが不可欠であって、またそれだけが、我々の自己決定を真に保証するものなのだということ、本稿で述べたのはそのことである。
 では、この二つのとりかたの間に実質的に何ほどの違いがあるだろうか。確かにどちらも、我々の社会が民主的であることが、我々の社会における信頼関係の確立と不可分であると言っている点では変わらない。しかし、そこで確立されるべき社会的信頼関係の中身は大きく違ってくる。一方は、社会関係を動かしている全情報が開示されることで確立される信頼関係を目指すから、そこでは、専門家システムは必要悪として否定されてゆく。これに対し、本稿は、絶えず評価システムを重ねることで専門家システムを維持してゆくことが、我々の社会における信頼関係を確立してゆく途だと指摘したのである。この違いは、専門家システムは信頼できないからチェックが必要と考えるか、たんなる信頼の意味の取り方の違いにすぎないと見えるかもしれない。本稿では、そうではないことを、信頼の基本的場面にまでさかのぼった事実をもって指摘したつもりである。(なお本稿は別途発表予定の論稿を一部抜粋したものである。)


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