1997年 STS NETWORK JAPAN 夏の学校報告
'97 夏の学校実行委員長 平川秀幸 (国際基督教大学大学院)

会場: 茨城県立青少年会館 + 常盤大学
統一テーマ
危険社会   RISK SOCIETY   あぶない社会 ― そのSTS的課題と展望 ―

1「リスクをめぐる科学・技術と政治の問題風景―不確定性のエピステモロジー」
平川 秀幸 (国際基督教大学大学院)
2「科学技術の民主化とリスク」
木原 英逸 (国士舘大学政経学部)
3「科学主義と原理主義のあいだ ―展望なき未来とつきあう法―」
春日 匠(国際基督教大学卒業)
4「技術屋にとってのリスク評価」
柴田 清 (東北大学素材工学研究所)
5「テクノロジー社会における日本的リスク」
上草 貞雄 (東海大学工学部)
6「専門家とダブルシンク 〜医学的視線の形成過程の事例から〜 」
川崎 勝(山口大学医学部)
7「いい技術者〜エンジニアリング・エシックス考」
小林 信一 (電気通信大学情報システム学研究科)
8「科学・技術者の日本における責任の取り方とは?」
平井 俊男 (大阪府立今宮高等学校)
9「市民運動における技術と技術移転」
川野 祐二 (神奈川大学大学院)
10「専門主義論再考 〜若干の事例をもとにした非専門家の科学技術活動への介入可 能性についての考察〜」
綾部 宏則 (東京大学大学院)

 今年度のSTSNJ夏の学校では,以上のプログラムのもと,総勢31名の参加者を迎え,10名による報告を中心に,昼も夜も(そして朝まで)活発な議論と親睦が深められました。当日は,直前に控えた科学教育学会大会の準備の合間を縫って,地元茨城大学の小川さんと大辻さんも顔を見せて下さいました。参加されました皆様には,会場移動やセッションの進行などで多々ご迷惑をおかけしましたが,皆様のおかげで中身の盛り上がりは大成功を収めることができたように思います。
さて,今年度の夏の学校は,「科学技術社会のリスクとそのSTS的課題」という主題のもと,上記プログラムに見られますように,特に専門家と非専門家をめぐる議論が中心となりました。これは,丁度今春のSTSNJシンポジウム「1995年問題を検証する―信じるものは足元をすくわれる」からも引き続く議論であり,企画者としてもそれを狙っていた方向性でした。以下にいくつか,個人的に興味深いと思われました論点を,以下の系統別に挙げてみます。

1. 「非専門家」(「素人」、「市民」)の役割と、その専門家との関係
(A) 「問題提起者」としての市民
(B) 職業的専門家とは別の科学技術の専門家(市民的専門家?)としての市民
(C)「賢い消費者」としての市民

2. 「専門家」と,その社会との関係
(D) 専門家になるということはどういうことか。
(E) 専門家の倫理を可能にするための社会的インフラの整備
(F)不確実性への対応としての専門家の責任確立

1. 「非専門家」の役割と、その専門家との関係
 まず (A)は、特に柴田さんや平井さんが指摘された論点で、職業的専門家と比べて 専門知識の無い非専門家にもできること、またすべきことは、不安な限りはしつこく安全確認を要求したり,問題提起をしてゆくことだということです。そこでは、平井さんがおっしゃっていたように「分らないことへの疑問」を抱き、それを維持しつづけてゆくような精神性を育てることが、「リスク時代の科学技術教育」の要として重要であるといえるでしょう。
 (B)は川野さん、綾部さんが論じられたものです。川野さんは、NGOによる技術移転活動において、現地文化に適合しうるような適正技術は、産官学的な通常の科学技術の知識生産ベースに乗り難い。また一般に現地の人による自律的なメインテナンスを可能にするためにも、比較的シンプルなものでなければならない。それゆえこのような技術活動は,非職業的専門家こそが主体となるべきうってつけの領域だということでした。また綾部さんの議論は、科学技術の知識生産のプロセスは、完全に職業的専門家のサークル内に閉じているものではなく、非専門家が積極的な介入が可能な局面(フェイズ)が知識生産過程には存在し得ることを例解したものでした。これらは何れも専門家と非専門家の関係を,単に専門的知識の量的差異で捉えるのではなく,それぞれに全く異なる専門的役割がありうるという質的差異,役割分担の観点から考えるための好例を示していると思われます。
 (C)は柴田さん、小林さんがとくに指摘・強調されていた点で、「非専門家」や「素人」、「市民」という漠然とした存在がとる具体的な役割である「消費者(ユーザー)」としての市民に光を当て、その技術者・専門家集団に対する働きかけが重要であることが指摘されました。つまり、技術者が「いい技術者」として振る舞えるためには、消費者の働きかけ(問題提起、安全性要求、市場での選択など)が不可欠だということです。またこのとき注意すべきは、そこでの消費者と技術者との関係は、単に対立的なものとして考えるのではなく、場合によっては文字どおり協力し合うものともなるということ、消費者が,企業など組織内で「いい技術者」になろうと奮闘している技術者を「支援する」という側面が重要だということです。

2. 「専門家」およびその社会との関係
 まず(D)は、川崎さんの「専門家形成過程におけるダブルシンク(二重思考)の確立」が打ち出した観点でした。これはとくに医者が「人間をモノとして見ること」と「人間を人間として人格的存在として見ること」という二重の視点を医療行為のなかに不可分なものとして結びつけているということ、そして「解剖実習」がそうしたダブルシンクを形成するための重要なイニシエーションとなっているということを指摘したものでした。私が受け取った形で言いかえれば、この過程は、そのままでは社会的・倫理的に異常な行為である「人の体を傷つける」という手段的行為を、「人を救う」という医療がもつ道義的目的のなかにいわば「埋め込む」過程であり、そうすることによって異常行為を、「正当化」―というよりは「文脈化」―して意義を与え、またそうすることによって限界づけ、いわば手なづける作業だと思われました。とくに「限界づけ」という点は、川崎さんが指摘されていた「生体臓器移植に対する医者の拒否感」(健康体にはメスを入れたくない)というところに端的に現れているといえるでしょう。医学・医療においてはこうした埋め込み作業が制度的・儀礼的に確立され、こと「限界付け」に関しては,勿論万能ではないものの一定の効力を持っているという点は、医療行為の是非や他の分野と比較した場合、専門教育や専門知識の形成に関して何がいえるのか、とても興味深いと思われます。技術的行為というものは常に、何らかの目的のための手段であり、手段は常に目的と結びついて初めて有意義なものとなるわけですが、それはしばしば「目的達成のために効果的ならどんな手段でも構わない」という手段の突出化、自己目的化、自己正当化、手段追求のエスカレーションともいえるような問題性を孕み、場合によってはそれが仕える「目的」の意味を空洞化させる(たとえば延命治療におけるQOLの低下)ことにもなりかねません。このような技術の「行き過ぎ」―というよりは、それが埋め込まれるべき目的のコンテクストからの「逸脱」―を評価する場合に、ダブルシンクという思考様式とその形成過程の制度化は、面白い視点を与えてくれるように思いました。
 次に(E)は,特に,電通大での講義を元にした小林さんの発表「いい技術者〜エンジニアリング・エシックス考〜」の中で論じられたものでした。技術倫理の必要性と、「いい技術者」でいるということが、様々な倫理的ジレンマを孕む非常に困難なことであるということに始まって、技術者が「いい技術者」であるためには社会的環境の整備が必要であり、技術者集団、社会、企業がそうしたインフラ構築の努力をしてゆかなければならないということでした。そこで小林さんがとくに紹介されたのは、米国のプロフェッショナル・エンジニア協会などの様々なユニオンや学会の存在とそれらによる「倫理綱領」の制定でした。この綱領は、自らの良心や社会的規範と上司や企業の業務命令の間のジレンマが生じた場合の専門家たちの行動指針を定めたものだということでした。そしてこれが単なるお題目に留まらず一定の実効性を持っている背景には、日本とは異なって、これら専門家団体が個別企業の枠を横断する労働組合的な性格をもっており、技術者の権利保護や紛争調停役を引き受けることによって、個別企業の利害を超えた行動を可能にしていることがあるとのことでした。
これに関連してもう一つ,専門家倫理と社会的インフラに関する重要な論点としては,木原さんがお話しされた専門家活動の「チェックシステム」の確立は,参加者全員の共通認識だといえるでしょう。これはいわば専門家による知識生産やサービス提供の品質管理であるわけですが,それを,従来の専門分野の狭い枠内のピアレヴューに留まることなく行うためには,どのような制度が必要なのかは,とりわけ日本では今最も重要な問題の一つでしょう。
最後に(F)は,特に最終日の総合討論で辛島恵美子さん(安全学研究所)が指摘されたもので,ますます不確実性の度合いが高まってゆく科学技術社会のリスクに対して,関係者が負うべき説明責任・事前責任・事後責任を確立してゆく必要を訴えたものでした。なおここで「科学技術社会のリスクの不確実性」とは,次のようなものです。一つには,現代社会において私たちを取り囲んでいるリスクは,たとえば薬害などに見られるように,正に科学技術が進歩するのと同時に,全く未知のものとして次々と現れてくるものであるために,(a)リスクの存在そのものの発見が相当程度遅れ(しばしば実際に被害が顕著になってから)ることになり,原因究明や責任主体の特定が非常に困難となり,効果的な対応策の発見も大幅に遅れてしまうこと,(b)危険事象の経験的な発生頻度に基づいたリスクアナリシスや保険による保証という従来の手法ではカヴァーしきれないものであるということがあります。また第二に,技術的に検出可能ぎりぎりの水準でも,たとえばダイオキシンなどのように食物連鎖を通じた濃縮過程なども介在して,結果的に顕著な有害性を表すようなものが多くなってきていることなどがあります。このような状況では,事前の安全管理の強化が重要なのはもちろんですが,何よりも事後的な原因や責任の追及を可能にするために,研究開発や製造過程全体にわたる詳細な記録の保持が必要であると,辛島さんは主張されました。このような責任の確立は,小林さんが指摘されていた,明らかに過失にも当たらないところまで加害主体の責任を要求する「責任追及の激化」という行き過ぎを是正し,節度ある対応が為されるためにも重要なことだと思われました。

 既にあの夏の日から三ヶ月余りが経ち,ノートを見ても記憶が曖昧なところが少なくありません。上記でとりあげた主張について,「私はそんなことは言っていない」など文句がありましたら,是非ご進言下さい。
 それでは,また皆様,来年の夏の学校でお会いしましょう。


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