『もののけ姫』評−生きろというメタ命令を引き受けるために
 春日匠

 この夏、宮崎駿監督による『もののけ姫』が空前の大ヒットを記録した。これに対する分析は多種あろうが、ここでは科学論的な立場から「環境問題に対する一般的関心」ということを念頭に置いて、『もののけ姫』で展開された自然観、環境観の構図を俯瞰してみたい。物語については、実際ご覧になった方も多いと思われるし、あらすじを目にする機会も多いと思われるので、ここでは省略し、いきなり本論に入らせていただきたい。
 多くの日本アニメがそうであるように、これまでの宮崎作品に置いては、明確な役割や強固な目的を割り振られているのはおおむね少女である。『風の谷のナウシカ(映画版、以下『ナウシカ』と略記する)』を例に取れば、ナウシカは風の谷という自らの属する共同体のために、トルメキアの皇女クシャナは人民のためであった。『もののけ姫』においてももののけ姫サンはシシ神の森の自然のため、エボシ御前は人民のためだろう。この事だけ取れば、『もののけ姫』は『ナウシカ』とおなじ配役の構図を持っている。
 これに対して、少年はしばしば立場がはっきりせず、また自ら立場を明確にすることができないと言うあいまいな状況に置かれることが多い。したがって、『未来少年コナン』以後、宮崎アニメで少年が主人公になることはほとんど無かった。『もののけ姫』においても主人公アシタカは2人のヒロインのあいだで明確な姿勢をとりかねている。
 では、『もののけ姫』はこれまでの宮崎アニメの構造を引きずった駄作かというと、そうではない。第一に『ナウシカ』では明確でなかったヒロイン2人の対立の構図が、ジコ坊というトリックスターを加えることによって、自然をサンが、(人間を含めた)環境をエボシ御前が、(国家レベルの)成長を朝廷勢力に属するジコ坊が代表するかたちで明快な説明を与えられている。これは、いわゆるトリレンマ(成長、環境、自然の対立)の構図であることに注目されたい。
 なんとなく、「近代」が悪者になてしまうのはしかたがないのだが、ジコ坊(が代表する朝廷勢力)にも言い分はあるのだろう。おそらく『もののけ姫』の舞台となっている時代は、朝廷が古来よりの土着神道と縁を切り、より大陸的で無神論的な儒教文化や仏教文化を摂取することにより国力をつけていく、その過渡期にあるのだろう。
 そもそもトリレンマというが、3つの要素は何れも人間が生きるプロセスのなかに本来含まれているものである。ではなぜそれらが矛盾として現れるのだろうか?。
 3人の人物は映画のなかで、自分たちの目的のためなら死をとして戦う人物として描かれている。実際、トリレンマのそれぞれの立場は過激な形において死と直面せざるをえないのである。
 自然を重視するディープ・エコロジー的立場に置いては、人間すら生態系のサイクルの一部に過ぎない。そうした視点のなかでは、個体は生命の円環の一要素であり、虫や獣の命と人間の命の意味に重さの差はなくなる。環境と共同体を重視する立場では、その大儀に殉じることによる個人の死がおこる(これは社会と個人のどちらを優先するか、という伝統的な議論と同じものである。この事がエボシ御前をこの物語のなかでもっとも魅力的な人物にしている)。そして成長(つまりポジティヴ・フィードバック)には臨界点の向こうに系の崩壊という死がある。
 サン、エボシ御前、ジコ坊は、これら自分の選んだ大儀に殉ずることも厭わないし、実際三者ともに物語の中で何度か死に接近している。しかし、先に述べたようにトリレンマの何れの立場も、「人間が生きるプロセス」の一部であるはずなのである。
 サンはあくまで(選択肢があるにもかかわらず)「人間としての生き方」として、森に生きることを選んでいる。
 エボシはその共同体のために死を選ぶ。しかし、「社会のために死ぬ」ことを人が選ぶとき、そもそも社会の一部であるはずの自己を犠牲に出来るというのは矛盾ではないのか。「生きろ」というメタ命令ゆえに生じたはずの環境あるいは社会がここでは死を命ずるのである。
 成長の無い社会は死ぬ。しかし、止まらない成長も崩壊に至る。資本主義は間違いなくこの葛藤を抱えているが、近年の人類学の成果は非近代社会に対してさえ、無成長社会が成立することに悲観的である(たとえば、アフリカの砂漠のうちいくらかはおそらくヨーロッパ以前の文化にその責任がある)。こうした矛盾に、しかし人間は簡単に目をつぶることが出来る。そして、しばしば革命とはそうした割り切りのもとで行われてきた。
 しかし、今回宮崎アニメに始めて現れたタイプの人間であるアシタカは、「人間が生きるプロセス」の選択としてのトリレンマという事実を見つめようとしている。故にこそ三者の何れをも否定することなく、そのあいだで苦悩するのである。かれはしばしば、「生きろ」という命令を下す。これはトリレンマのそれぞれの立場に対してメタ命令として働く。この「生きろ」という命令無しではトリレンマの何れの立場も無意味なものと化す。その一方で、「生きろ」というメタ命令はトリレンマのそれぞれの命令が究極的な形で果たされることを阻止する。ここにはまさにアメリカの人類学者ベイトソンの言うダブル・バインドがあるのだ。
 ダブル・バインドは、あくまで「命令」と「メタ命令」が矛盾するときにおこるもので、単純な「あれかこれか」ではない。例えば、母親が「親の顔色ばかりうかがうんじゃありません!」と怒ることは、「親のいうことを聴け」というメタ命令に、「親のいうことを聴くな」という命令が対するのでダブルバインドである。一方「ケーキをたべるか饅頭をたべるか選択せよ」という命令は「美味しいものを食べろ」というメタ命令に矛盾しないのでダブル・バインドではない。そして、『もののけ姫』におけるサンやエボシが内面化している命令は究極的には死を指向するので「生きろ」というメタ命令に矛盾しているダブル・バインドである。
 『ナウシカ』では、自立的な理想の共同体(これはまさにエンゲルスの原始共同体である)の構築がナウシカという少女に仮託されて描かれていた。この共同体(風の谷)は『もののけ姫』では最初の蝦夷の村であろう。そして、西(という近代)から来る怪異に立ち向かう少女カヤが、ナウシカなのである。しかし、近代の矛盾が自足的な共同体である蝦夷の村にも容赦なく入り込んでくるとき、「原始共同体幻想」は崩壊するのである。現実の我々はこうした理想の共同体の世界にはもはや決して戻れないのだから・・。
 アシタカの旅が意味するものは、今まで女性性と社会主義という二つの幻想に矛盾の解消を押しつけてきた宮崎(そして我々)が、この矛盾を見据える旅にでた、と言うことなのである。
 ここで、矛盾を抱えつつ生きるにはどうすればいいか、という展望まで示せれば、彼は近未来の「神話」を編み上げたと言えるだろうが、今回はちょっと残念なことに、矛盾の存在をみとめ、それでも生きていく意志、生きていく可能性を示しただけに終わった(話題になったサンとアシタカの最後の会話はそのことを示している)。だから、『ナウシカ』が世紀末の神話だったようには、『もののけ姫』が新世紀の神話になることはないだろう。
 ただ、ナウシカの「次」への展望を示していること確かだし、現実の矛盾を構造的に描き出したある意味でカタルシスの無い映画に、これだけの人が集まるという事実は、単なる社会現象ということ以上に大きな意味を持つとみて、間違いはないだろう。


参考文献:『天使のおそれ:聖なるもののエピステモロジー』グレゴリー・ベイトソン&メアリー・キャサリン・ベイトソン 星川淳訳 青土社 1992

[戻る]
Copyright (C) 1997, STS Network Japan
All rights reserved
For More Information Contact office@stsnj.org