非専門家とは誰か。非専門家は当該問題に対して無知であるとみなすのか
− 検証 ’95年問題 のシンポジウムに参加して −
 小寺 悦子(神戸大学発達科学部)

§ はじめに

 「非専門家と専門家」については以前から次のような観点から関心を持っていた。
 即ち,
1)非専門家は専門家になり得るか。専門研究は,専門家にしかやれないのか。素人の研究は科学研究にはなり得ないのか(値しないのか)。
2)私たちは政治の非専門家である。それでも私たちは各政策に決断を下さねばならないときがある。−投票における政党,個人の選択という形で間接的に−そのために私たちが持つべき政治リテラシ−とは何か。
である。
 ここでは,2)について意見を述べたい。私たちは生活の中の様々な場面で決断を迫られる。決断の結果がそれほど深刻な状況を生み出さない場合はほどほどに決めればよいが,常にそのような事態ばかりではない。決断の対象も個人レベル,家庭レベル,社会レベル,人類レベルと様々であり,社会レベルと人類レベルについては目をつぶることはできる。しかし,社会体制の大幅な変革の時など個人がどうしても選択を迫られる場合はある。私たちは政治・経済の専門家(プロ)ではないし,社会の動向について予言をすることも法律の専門家でもない。それでもこれらの範疇に関わる現象や事象に一定の判断を下さざるを得ないときはある。そのためのリテラシ−とは何か。そのリテラシ−はどこで養うのか。学校教育の場か。個人の日常生活の中か。家庭教育の中か。

 私たちは長年学校で科学を学ぶ。にもかかわらず科学音痴は多い。同様に,社会現象についても小学校1年からいろいろと学んでいる筈であるが社会・政治・経済・法律については音痴である。このような非専門家が一定の判断を下し得るようになるには,どう訓練するべきか。これらの領域のリテラシ−としての要素は何か。そうしたリテラシ−形成に科学教育は役割を果たし得るか。
このような関心から,最近,以下に述べるような試みを実行した。まだまだ始めたばかりであり,その上にこのような仕事には素人であるのでばかばかしいことを行っているのではないかとも思う。読まれた方々のご意見をいただければと願っている。

§ 判断を下す要素を調べる
判断を下す要素を調べ,その要素に科学の学習が関わるかを知るために,次のような調査を実施した。
(あ)「判断を要求される1つの主題に対して情報が提供されたとき,私たちは
どんな反応を示すか」をシミュレ−トするために,例として,

”住民投票は政治を変えられるか”

の主題で行われた(論点の異なる2人の)紙上討論の記事(朝日新聞紙上)を学生に提示して,
  a)2人の主張をまとめる
  b)どちらかの立場に立って自分の判断と議論を記すについて,レポ−ト提出を求める。
(い)レポ−トを次の観点から分析する
  a)2人の主張を適切にまとめているか
  b)自分の判断と議論を,2人の論点のどの部分に同調して行っているか

 対象となった学生は,神戸大学発達科学部人間環境科学科1年生(現2年生)の必修科目「自然環境概論」(通年,オムニバス形式の講義,筆者の担当は後期最終日)の受講生(100名)であるが,評価のためのレポ−トとして複数の課題の中から選択してレポ−トを提出することになっているので,この調査課題に提出された数は24であった。ここで,人間環境科学科の構成について述べると,4つのコ−ス,1)社会環境論 2)数理・情報環境論 3)自然環境論 4)生活環境論 に分かれており,各コ−ス所属学生は高校の学習および大学受験コ−スともに文・理系の両方からのものである。ただし,2)と3)のコ−スの大部分は理系学生である。
 コ−スへの配属は2年生になってから実施されるのであるが入学時に文系・理系コ−スの授業科目選択をする(平成9年度からこの区別は廃止された)。  まず,提示した資料について簡単に紹介する。
 資料の内容は,”住民投票で政治は変わるか”というタイトルで,新潟県巻町の原発設置に関する住民投票,米軍基地の整理・縮小に関する沖縄の県民投票を受けての評論家A氏と新聞社論説委員B氏の討論である。


沖縄の投票の評価
A氏:本質的に同じ形で投票は実施されている。重要な論点を浮かび上がらせないまま,住民の自己決定を強調しすぎている(1)。
論点の例:米軍がいなくなったら日本軍を強化すべきか 等。論点を単純化して住民を熱狂させるのはデマゴギ−である。
複数の問いの例:日本列島から軍隊がすべてなくなるのに賛成か.本土人の反応としての熱狂的な非武装主義は度し難い。
B氏:住民投票の良い悪いを言うときには,それが権力過程なのかどうかを見る必要がある(2)。沖縄の場合は,権力過程にあげるル−トはないが議論になることで波及効果が大きい。政治過程には,直接的な作用以外の副作用も意味がある(3)。テ−マ,質問事項など大問題もある。が,マスメディアの信用性も含めて一生懸命考えながら住民投票を育てた方が良い(4)。


巻町の投票の評価
A氏:住民が社会的・歴史的視点を含めて考えたか。原子力エネルギ−なしに生きられないという説をも考えたか。そうでないと地域エゴになる(5)。
B氏:多くの人々が真剣に考えた。関心の強さは投票率の高さにも伺える。住民の議論の例:なぜ大消費地の東京や大阪に原発ができないか.しかし,住民投票は提案の場でなく,提案に答える場である(6)。提案は議会や首長または,学者がすべき。


国民投票制導入論について
A氏:現在の住民・国民投票制の議論は,議会制民主主義にとって代わるもの一つの巨大な感情運動になる恐れがある。間接民主制すら作れない人間たちに直接民主制をうまく動かせる条件も能力もない(7)。
例として:消費税導入の国民投票はNoという結果になる。結果として国はどうなるか。崩壊しても国民が決めたことだから仕方ないで済むか。英国の議会制民主主義は,直接制への反省からのものである。人類の過去の知恵を軽視するのか(8)。
B氏:主権者と権力者との距離があまりにも開きすぎているという実感(9)が直接民主制を受け入れることになる。我々が主権者だと再確認することが住民投票を媒介にして行われる,一種の民主主義教育として良い(10)。英国のキ−ワ−ドは寛容である。議会制が直接制を受け入れる寛容さ(11)がある限り議会制は健全である。

戦後の民主主義を絡めてのまとめ
A氏:民主主義の基本は議論である。現在日本人は会話とか議論,討論をしない(12)。日本人は言語能力を失い,おのれらの精神疲労を隠すために制度疲労を言い出して,社会に大実験を仕掛けるのは国柄を破壊する意味で集団自殺行為である。
B氏:福沢諭吉は「多事争論でなければ自由は存在し得ない」と述べている。全肯定・全否定みたいな議論があるのはどっちの側からも不毛である(13)。

注: ( )内数字は論点を区分するためである。


 要約すれば,A氏の議論は ”国民は馬鹿である。判断能力はない。国政に参加させることはできない” であり,B氏の主張は ”住民・国民投票は間接民主制を補完するものとして,主権在民の再確認,政治への関心の喚起,政治への波及効果等多様な役割を持つ。民主主義の基礎である多事争論を実行して,全肯定・全否定の不毛を排して住民・国民投票を育てるべし”としている。

 支持24通のレポ−トのA氏支持,B氏支持とコ−ス別,性別の人数を表に 示す。サンプル数が少ないので1つの傾向をつかむのは無理かと思うが,全体のA氏支持とB氏支持の比率が37:63であるのに対して,男女ともその比率は全体とほぼ同じである。あえて特徴的なことをあげるなら自然環境論コ−スの学生の選択がB氏支持に偏っていること(社会環境,数理・情報環境コ−スではA氏支持が多い)である。
 A氏,B氏の主張の要点については,どのレポ−トもほぼ見落とすことなく整理していた。この点は,以後の学生の議論が深まっているために必要なことである。


コース社会環境数理自然生活
A支持2人223 972
B支持1人185 15123

学生がA氏を支持する根拠として指摘する論点は,
1)重要な論点を曖昧にしたまま投票に委ねる点
2)国民は政治に無関心,エゴや感情で投票する危険
3)複雑な政治問題を一発の投票に委ねる不安
であり,自分をも含めた国民の政治に対する無関心への危惧とyes・noの投票方式への不安に同調したと考えられる。そして,国民の資質を疑問視して,(i)政治問題など難しい問題は専門家にまかせるべしとする意見と, (ii)もっと国民を教育するべしという意見が提案される。

B氏を支持する根拠としては,
1)主権在民の確認,民意の反映など間接民主制の欠陥を補うために有効
2)国民の政治に対する無関心を修正する役割つまり,戦後50年経って議論の場が失われつつある。直接民主制は直接自分たちの生活に関わることを判断することになるから,興味を示し,議論をするから政治への関心が出る。
3)地域レベルの問題を国レベルの問題に引き上げる役割
4)議会制に対する軌道修正を促す役割
  議会が直接制に対して寛容さがある限り議会制は健全である。
5)全肯定・全否定の議論の不毛さ
をあげており,しかし,国民はもっと政治に関心を示し,行政・経済等の仕組みの深い理解のために勉強するべきであることもつけ加えている。
 ある学生は,
「日本人だから日本の政治に役立ちたい。間接制では歯がゆいので,提案を政治家がしてそれにYes,Noを言う機会がほしい」と述べている。
 総体に,B氏の方に対する議論が広がりを見せているのは対談における両氏の議論の質に依存している。その点に関して,学生はA氏の議論を批判して,「・・・もう少しいろいろな方向からの思考,中庸論的な考えも必要だと思う。」と述べている。
A氏の場合,全否定が前提であるために議論を発展させることができない。こうした議論の仕方は民主主義にとってはできるだけ避けるべきであり,やはりB氏が指摘する全肯定・全否定の不毛さを私たちは自分に言い聞かせるとともに教育の場で伝えねばならない。
 A氏の議論の欠点のもう一つは,主張の論拠が述べられないことと特殊な事例を挙げすぎることである。これは,科学研究において特に戒めるべき点であり,私の場合には,A氏の論点を読みながらいちいち引っかかった点である。もしも,科学的思考が ”主張の論拠の明確性,事象の一般性”をその一部として要求し,科学を学ぶ中でそのことが養成されるならば,先に挙げた表の中のB氏支持率が自然環境論コ−ス学生でかなり高い理由を説明できるかもしれない。勿論,こうした政治問題は個々の学生の思想や生活信条と関わっているのでもっと幅広い検討が必要かもしれない。
 A氏もB氏も指摘しているように,現在の日本人が議論・討論を避け,議論をすると”大人げない”とか,”協調性がない”などと非難し,みんな仲良くみたいな風潮があるのは21世紀の日本にとって最も忌避すべき事柄であると思う。そのためには,学校教育の場で積極的に上手な討論の仕方を訓練させる必要がある。
ここで報告した「討論をシミュレ−トする方法」は,内容を適切に選択することで(例えば,小学校では,小学生新聞のそうした記事を選択するなど)
”如何に討論をするべきか”
を学習させる良い方法であると考える(実際にあるテ−マでクラス討論をする前段階として)。



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