卒業記念特別寄稿 「わたしとSTS」
藤女子大学人間生活学部人間生活学科のみなさん


藤女子大学人間生活学部人間生活学科4年 金子真美

 私の家には,話をするカラスがいます。函館市内の小学校に進入し,いたずらし放題だったのを父が引き取ったものです。足の裏まで真っ黒な姿から悪魔の使いと言われ,死肉を食べると嫌われてきたこの生物は,私の教育実習で大活躍してくれました。ある程度大人の顔をした高校生を,こんな話で引きつけることができるだろうか。心配しながらのロングホームルームで,期待に満ちた,刺さるような視線で見つめる生徒たちがいました。人と違うことをする勇気,自分とは違うことをしている他人が周りにいることのおもしろさ,伝えたり認めたりといった人間関係の基盤がそこにあることを私は伝えたいと思いました。教育実習生の非常につたない授業ではありましたが,生徒とのコミュニケーションや,普段もの静かな生徒との会話のきっかけになりました。
 日本の社会と教育が競争主義の原理に取り込まれる中で,目には見えないが子供の心の奥深くに排他的で,しかも自己抑圧的な心性が植え付けられているように思われます。教育の領域では,目立たない方法でそれと気づかず,そういった植え付けが日常的に行われているように思います。我々大学生も,悲しいことに,こういった社会的価値観の中で育ち,多かれ少なかれ影響を受けてきています。
 「人類を進化させるために必要な人間は,ほんの一握りでしかない。それ以外の人間には生きている意味も価値もない。頭がよいか悪いかは,遺伝で決まっていて,能力がある者がお金を使ってこそ科学を発達させ,人類を進化させることができる。人の脳は近い将来,機会にとって代わられる。そのうち人間なんて必要なくなる。」
 現実に,こういった言葉を耳にしたことがあります。信じられない考え方,とんでもない価値観であると思いますが,ある意味非常に純粋に,従順に,社会や学校の期待に必死に応えようとしながら育ってきた結果であるようにも思われます。
 藤女子大学人間生活学部で学んだことは本当にたくさんありますが,環境問題,女性問題,家庭,学校,社会での人間関係のゆがみや経済社会のいき詰まりにまで共通して,こころの在り方が問われているように思います。教育の現場からこころの教育がうったえられていますが,教育の現場からだけでなく様々な角度からのアプローチが必要であるといえます。だからこそ,様々な研究をされている方々がSTSの考えを持たれていることが,とても心強く感じますし,ますます社会に浸透させる必要性も感じます。
 私は,春から高校の教員として教職に就きます。自分自身学びながらも,家庭科という強化の中に,STS教育的考えを取り込んでいきたいと考えています。


藤女子大学人間生活学部人間生活学科4年 高嶋明子

 この大学で,人間生活学〜ヒューマン・エコロジー〜を学んではや四年が過ぎ去った。その集大成となる(はずの)卒論を終えた今は,卒業を待つばかり。自分の好きなように使える時間がたっぷりあるのもあと僅かかと思うと,ちょっぴりせつない気分の今日この頃である。
 卒論は「自由人の教育と平和のために」という題で,平和教育について,バートランド・ラッセルとアルベルト・アインシュタインの思想を手がかりとしながら進めていった。提出したのは,学科でもほとんど最後。この方向にテーマを定めた頃は,個人的な趣味の世界から攻めていったこともあり,結構面白がってやっていたのが,嘘のようだ。
 しかも「大学四年間の中では唯一まともに勉強をした機会なのだし,これまで私自身の中でもやもやしていたものがすっきりするかも知れない」という憶測も,見事に覆された。無精がたたった,構成に問題があった,と言えばそれまでだが,想像以上であった「平和」の持つ重みとその深さに,今では恐怖に近い感情さえ抱いている状態である。
 平和とは何か。卒論を終えても未だに消化不良のままなのだが,はっきりしているのは,世界平和のために有望,かつ堅実な方法は,正しい教育を通じての方法であり,正しい教育とはラッセルの言う「幸福なひと」をはぐくむ教育である,ということである。
 そこで,卒論は幸福論を柱とし,特に,人間の衝動を「共感」として誘導すること,STS的視点からみる地球市民としての責任,といったことに焦点をあてて展開した。深く生命の流れと結びついた心身の調和と,それがあたえる喜びを自然に,自由に楽しむ「幸福」と平和との関わりに就いて考えてみたつもりである。
 すべての思想や教育の目指すところは平和であるが,無論私が四年かけて学んだヒューマン・エコロジーの思想も例外ではない。ヒューマン・エコロジーの原理である「共生」を意識する時,例えば発展途上国と呼ばれる国の人々や動植物立ちへの静かなる戦争を回避することは,私達が生まれ持つ責任であることが理解できる。また,そのための優しさや勇気,知性は,私達の在り方を示す指針となることもこの思想は教えている。
 偉そうなことを言って,じゃあ私自身はどうなのか,というとモグラにでもなってしまいたい後ろめたさがある。少なくとも今の私はちっとも幸せではないらしい。


藤女子大学人間生活学部人間生活学科4年 橋 貴愛

 「生きていることがつらい」とか「生きることが難しい」などと耳にすることの多い時代である。そして,ストレス社会ともいわれる現代。そのストレスには,大人だけでなく,子供たちも無防備なままにさらされている。ストレスから,身を守るためにはどうすればよいのか?ストレスから逃れて,息をひそめてじっとしていればよいのかというとそうはいかない。ストレス学説を打ち立てたハンス・セリエ教授は,「人間からストレスを完全に取り去ってしまうと,その人間はダメになる。適度なストレスこそ人間をしっかりさせる必要条件だ」と言っている。最大のストレスは孤独感だと言われている。一人ぼっちの孤独ではなく,大勢の中に居ても心が孤独であるという感情。では何故,孤独を味わうのであろう?それは自分自身がこうでありたいという理想を描き,また周りに居る人もそうであって欲しいと望んでいるという頑なな思いを抱いているからではないだろうか。特に子供たちにおいては,ものさしから少しでもはみ出さないように一生懸命しがみついている現実である。そして,いじめ・不登校・無気力化・受験戦争の過熱化・・・とは,どこでどの様な慰めを得たら良いのだろうか?"孤独であること"を支えてくれる知る以外に方法は無いのかも知れない。その何かを見つけ出せた時,『わたし』という自分自身の存在を認め,受け容れることにつながるのではないだろうか。
 中教審は,<ゆとり>の再生による「生きる力」の育成を掲げた。「生きる力」を自ら考えて行動する力と定義している。私たちが生きていく為には,学んだ知識や技術を生きるヒントに変えていく力が必要であり,子供たちが自分に与えられた生命を大切に生きていくことが出来たら,生きていることの喜びを見出し,自分の周りにいる人々をも大切にする原動力になると考える。ピーンと張りつめた糸はちょっとした瞬間に切れてしまいやすい。心の糸をほんの少し弛めて自分自身を愛してあげることが必要である。そうすることで,心の琴線に触れる多くの出会いが,かけがえのない糧になり豊かに満たしてくれるであろう。
 藤女子大学人間生活学部で学んだ4年間,ずっと探し求めてきた"いのち"のつながり。まさに,いのちを高めるこころの教育は,このつながりの中でこそ育まれ実践されなければならないのだと信じてやまなかったのは,私にとって家庭科が生きた哲学であったから。私が声を大にしていえること,それは,「人間が好き。子供はもっと好き。家庭科が大好き。」
 万物の霊長と呼ばれる人間は,脳と素晴らしく発達した神経系を持つ。"人間はいかに生きるべきか"を模索し,より,良いものを創造していくかということは,高度な精神活動に裏付けられた生命活動であり,それらの中に生きる意味を見出すのはそれ故であろう。
 最近,EQという言葉を知った。IQ(知能指数)ではなくEQである。Eはemotionの頭文字で感情指数という意味である。どれだけ自分の感情を上手にコントロールできるかが,重要視されるようになってきている。「挫折した時に自分を励ます能力」「自分が納得しての決断力」「相手の気持ちを察したり,あいてのたちばにたって考える力」・・などと考えることができるだろう。発明王のエジソンが電気のフィラメントになる素材を発見した時のあるエピソードがある。三千種類という気の遠くなるような数を試してもまだ発見できなかった頃,「世の中には五千五百種類の物質があるというから,残りはあと二千五百。成功はもう目前だ」と考え,ついに発見。そのポジティヴな考え方こそが成功へと導いた鍵だったのだろう。
 目先にとらわれることなく,長いスパンで疎の細長い知識の断片を集めて全体像を見る目を持ちたい。私にとっても,「生きる力」は心に<ゆとり>を持つことと,いのちのつながりの中から自分さがしの旅を始めることであった。いや,始まったばかりといえるだろう。



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