環境教育外論
 丸山康司(東京大学大学院総合文化研究科)

 ちかごろ「自然」がはやりである。環境問題や自然保護について研究している立場からすれば、歓迎すべき流れなのかもしれない。しかし、どこかでとまどいを禁じ得ないのである。特になじまないのが「アウトドア」というやつである。といっても、ブームともいえるアウトドアの中に見られる商業主義を問題視しているわけではない。商業的な発想の影響によって過剰な利用が行われているということ自体は、一つの大問題であるとは思うが、直接の関心事ではない。ここでいう「アウトドア」の中には、いわゆる「野外教育」も含まれてくるのである。理由はいくつかあるのだが、なにかがあやしいのである。
 何があやしいといっても、アウトドアや野外教育といった文脈の中で語られる「自然」ほどあやしいものはない。さわやかな声で語られるのは、「自然とのふれあい…」、「文明に囲まれた都会の生活では味わえない…」、「リフレッシュ…」、「経験を通じて自然の大切さを…」。要するにここでは「自然」が何かよいものの総称として語られているのである。確かに自然にはそのような一面がないわけではない。しかしながら、自分自身の体が覚えている「自然」と何かがなじまないのである。
 私は子どものころから十数年来、年に20〜30日は野外で生活している。ここまで続いてきた理由はいくつかあるが、別に最初から自然が好きでたまらなかったわけではない。むしろその逆で、自然の中で暮らすことは、多くの場合苦痛を伴うことであった。一般的に言われているような「自然」を楽しめるようになったのは、10代も後半になってからのことである。
 そもそも、都会ぐらしに慣れている人間にとって自然の中での生活はかなり過酷である。生活にまつわることを一切自分でやらざるをえない。そこらへんの仕事をやってくれる人も物もない。ほとんどなにもない。そんな状況で、例えば火をつけられないということは致命的である。で、悲しいことにたいていの場合は火がつけられないのである。食事が出来ずに夕方になる。ヒグラシが鳴きはじめる。これはさびしい。「悲しくなるから、あのセミを殺したい」という気分は、未経験者には理解できないだろう。「自然というものは時には過酷で…」などという説教を聞くまでもなく、2日もすればわかってしまうことなのである。
 だが、ここで主張したいことは、自然一般が過酷なものだということではない。むしろその逆であることも多い。だが、それはア・プリオリに良いとされている自然に接触したり、あるいは自然の中から良いものを発見したり、というのとは異なるのである。野外生活を例にしながら考える場合、一番重要なのは経験を通じて自然の中で生活する術を身につける過程そのものであると考えられるのである。いわば生身の人間として直接自然と渡り合い、技を身につけると同時にその延長線上にある自然を自らの手でつかむところに重要性があるのではないだろうか。
 そのような経験をしながら自分の中で自然を獲得してきた人間にしてみると、「アウトドア」の文脈の中で語られる自然はなんともぬるくてうそっぽいのである。門戸を広げるために敷居を低くすることは確かに大切なことである。けれども、多くの人々がそのような経験に基づいて自分の中の「自然」を構築しているとしたら、これは巧妙に仕組まれた一種の詐欺行為ではないかと思えてしまうのである。また、そのような「自然」の「保護」、「利用」、「教育」といった議論がどの程度実効性を持ちうるのかという疑問を禁じ得ないのである。
 葉っぱに埋もれたり、木に聴診器を当てて感じるものだけが「自然」ではない。


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