「戦前航空研の歴史発掘」
 東京大学先端科学技術研究センター 隅蔵 康一

 東大先端研を訪れたことのある方ならどなたも,正門を入ってすぐのところにある時計台をご覧になったことだろう.あの時計台は,1930年頃に完成され,その後およそ65年間の長きにわたって,科学技術の発展と共に歩むこのキャンパスの歴史を見つめてきたのである.我々先端研の学生有志は,客員教授の立花隆先生の音頭のもとで「先端研探検団」を結成し,キャンパス内の古い建造物の探訪・昔を知る方々に対するインタビューといった活動を行い,時計台が見つめてきたキャンパスの歴史を掘り起こしてみた.現在までの活動を以下に報告する.

1.東京帝国大学航空研究所の歴史
 まず最初に,文献に記された戦前航空研の歴史を紹介することにしよう.
 1918年に,わが国の航空技術の研究を振興するため,越中島に東京帝国大学附属航空研究所が創立された.1921年には,「附属」の文字が外され独立官制の東京帝国大学航空研究所となる.研究所は順調なスタートを切ったように見えたが,1923年の9月に関東大震災が起き,建物の大半が倒壊してしまう.そこで,当時所長であった斯波忠三郎氏は,研究所を駒場に再建することを決める.昭和7年に発行された「東京帝国大学五十年史」には,明治時代から駒場に農学校があったことが記されているが,その農学校の敷地の西端が航空研となったのである.
 再建は1920年代後半から始められ,1930年頃には駒場の地で航空研究の歴史がスタートした.その後1932年から1942年までの和田小六所長の時代は研究成果がもっとも華々しい時期であり,航研機,航二,研三,A-26といった世界記録に挑んだ航空機の開発研究が軍や民間と協力して進められたのもこの頃である.
 当時の研究部門は,物理部,化学部,冶金部,材料部,風洞部,発動機部,飛行機部,測器部,および航空心理部に分かれており,その他に工作部,図書部,事務部があった.「実質的にはほとんど各所員ごとの研究室制度により運営され,各所員の自由意志に基づいて研究が実施された」との記述からすると,研究所の雰囲気は自由なものであったと思われる.
 そのような中,日米が開戦し,1945年に終戦となる.戦後は航空禁止令により,いっさいの航空技術の研究が禁じられてしまう.そこで航空研も人員を削減し,1946年から理工学研究所として再出発する.その後,サンフランシスコ講和条約により航空研究が再び可能になり,1958年に航空研究所が復活.1964年には宇宙航空研究所に改組され,1981年に文部省の宇宙科学研究所と東大工学部の境界領域研究施設に分割される.1987年に境界研が発展的に解消して先端科学技術研究センターが設立され,それに伴い宇宙科学研究所の大部分は相模原に移転した.そして現在,航空研の跡地である駒場第二キャンパスには,先端研をはじめとした東大の様々な部局の建物や,宇宙科学研究所の建物が建ち並び,学際的な空気の中で最先端の科学技術研究が展開されている.

2.キャンパスツアー
 我々は,戦前の航空研がここ駒場の地に残した足跡を求めて,キャンパス内に残る不思議な空間を探訪してみた.
 まず最初に訪れたのは,ここ数年使われておらず,さる9月に取り壊されることになった18,19号館である.先端研の現センター長である岸輝雄先生によると,この建物は航空研時代に材料部が使用していたものであり,航空機用の軽くて丈夫な素材としてジュラルミンの研究が行われていたとのこと.ジュラルミンはアルミニウムを主成分とし,他に銅,マンガン,マグネシウムを含有する合金である.こうした研究には,材料となる金属を溶解する高周波炉,溶解により生成したビレットをつぶして均一化する鍛造機,素材を板状に加工する圧延機,棒状に加工する押し出し機,ワイヤー状に加工するドローベンチといったものが必要である.建物の中には,高周波路の配電盤,圧延機の土台,押し出し機の駆動系,そしてドローベンチの本体が残され,当時の研究の息吹を今に伝えていた.さらに,当時は大変珍しかったであろう50tの鍛造機も本体がそのまま残っていた.建物の外には水タンクがあり,鍛造機はその水圧で動いていたようだ.
 次に我々は,現在もなお研究に用いられている,1930年建設の3m風洞を1号館に訪ね,渡部勲技官にお話をうかがった.風洞を駆動するには,まず630馬力の電動発動機で直流電流を起こし,それにより500馬力の直流発動機を回す.その先には8枚羽根のプロペラがついており,風がおきるのである.風洞の中におかれた模型にかかる揚力,抗力,横力,モーメントといった力は,一つ上のフロアで測定される.現在はセンサーを使って電気的に計測しているが,以前は風洞天秤を用いていたそうだ.我々がそこで目にした風洞天秤は,かなり大がかりな装置であった.その他,上下フロアで実験開始の合図を行うために設置された伝声管なども見せていただいた.
 17号館の工作工場は,まさに工具の博物館であった.大正から昭和初期にかけて購入された海外有名メーカーの工具が目白押しであり,そのほとんどは現在も使用されているらしい.数ある工具の中でも特に目をひいたのは,当時としては世界一の精度を誇ったスイス・シップ社製の直線目盛り機や円盤目盛り機であった.これらは,ローマ字普及運動で知られる田中舘愛橘氏が直接ヨーロッパに買い付けに行ったものであるとのこと.さらに我々は,中川廣技官にお願いして,1924年に購入したプラット&ホイットニー社製の工具旋盤を用いて実際に真鍮棒を加工する様子を見せていただいた.当時の機械の精度の高さと,現在もそれを使いこなす中川さんの熟練した技術に感じ入るばかりであった.
 我々は,さる10月の上旬に,「先端研探検団第一回報告」を発行し,これまで述べたようなキャンパスツアーの結果をレポートした後,さらに活動を続けた.第一号発行以後の活動は,戦前の航空研で行われた,世界記録に挑む航空機を開発するための基礎研究の足跡をたどるものとなった.

3.記録に挑んだ航空機
 1930年代後半から40年代にかけて,航空研究所は軍や民間との共同プロジェクトを活発に行った.そうしたプロジェクトの一つとして,1935年頃より「航研機」の通称で知られる航空研究所長距離機の試作が始められた.航研機は1938年の5月13日より3日間にわたって銚子・太田・平塚・木更津の三角周回飛行(29周)を行い,62時間22分49秒の連続飛行により,航続距離11,651kmの世界記録を達成した.「神風」が日本-ロンドン間の飛行でスピード世界新記録を樹立した翌年のことであり,航空機に対する熱狂が高まる中で国威をかけて行われた記録飛行であった.
 この成功を受けて,航空研では1940年頃から「より高く,より速く,より遠く」を目標とした航空機の開発研究が研究所を挙げて行われた.その結果開発されたのが,「より高く」を目指した航二,メタノール噴射をわが国で初めて採用し「より速く」を目指した研三,および航研機の後継機として「より遠く」を目指したA-26である.実際にA-26は,戦時中のため公認はされなかったものの,無着陸で16,435kmを飛び,世界記録を塗り替えている.
 キャンパスの西門近くに,21号館という現在は使われていない建物がある.我々がそこを訪れて中を調べてみたところ,そこには原動機のような不思議な物体が整然と並べられていた.これらはきっと,記録に挑んだ航空機の開発研究を行った痕跡に違いないと考え,研三のエンジン開発に中心的な役割を果たした日大名誉教授の粟野誠一先生に現場まで足を運んでいただき,お話をうかがった.
 その結果,21号館の床に並べられた物体は,実は航研機の単筒試験用の試作エンジンであることがわかった.航空機のエンジンは,複数のシリンダーから成っているが,開発の初期段階では,単筒でエンジンの性能を試験する必要があるのだ.
 これらのエンジンは,まさしく航研機用エンジンの開発ストーリーを物語っている.航研機は,長距離飛行を目標としたので,一定の燃料で長い距離を飛べなくてはならない.そこで,当初は燃費の良いディーゼルエンジンを積むことが考えられた.ところが,ディーゼルは信頼性が低く重量もあることから,開発の途中でBMW社のものをモデルとしたガソリンエンジンに切り替えられた.そして燃費をよくするための工夫として,希薄燃焼方式が採用された.この方式は,最近になって自動車で用いられるようになってきたのと同じものであり,当時の技術水準がかなり高かったことを示している.
 21号館にはその他に,エンジンの出力を測定するハイドリック・ダイナメーター,排気弁を冷却するルーツブロア,燃料のオクタン価(アンチノック性を表す指数)を測定するためのCFRエンジンといったものも並べられていた.航二,研三,A-26のエンジン開発の過程を物語るものも多い.さらに,そうしたエンジンに混じって,くろがね4サイクルオートバイ用エンジンも残されていた.これは,排気弁にゴミが付着するとエンジンが止まることに着目し,酸化剤を散布して敵機のエンジンを止めるという計画があり,そのための実験に用いられていたものだそうである.
 また我々は,現在工学部が使用している25号館には,おびただしい数の航空機の図面が保管されていることを知った.それらとともに保管されていた書類の中からは,白鴎会という航空研の研究者の会が1943年に刊行した「航空決戦必勝の鍵」という冊子も見つかった.これを読むと,当時の研究者が,わが国と外国の技術力の差をきわめて冷静に分析していたことがうかがえる.これらについては,「先端研探検団第二回報告」で詳しく紹介する予定である.

4.映写機をめぐる探検
 駒場第二キャンパスには,それ以外にもまだまだたくさんの魅力あるものが眠っている.工作工場の倉庫からでてきた映写機も,そうしたものの一つである.
 この映写機は,アメリカ製であり,今では大変珍しい35ミリの映写機である.備品カードを調べてみたところ,1928年に1,080円で購入したものであることがわかった.おまけに映写機の中にはフィルムも入っており,最初のコマに書かれた文字を読んでみると,「昭和6年 落下試験」とあった.
 映像専門の会社であるエクサインターナショナルに問い合わせたところ,このフィルムは可燃性であるためそのまま映写しては危険であるとのこと.そこで古いフィルムを専門に扱っている育映社で16ミリの不燃性フィルムに焼きなおしていただき,さっそくその映像を見ることにした.すると,そこに写されていたのは,実物の水上機をクレーンで吊り,最高で4mの高さから海水面に落下させる,という実験であった.実験は3日間にわたり,高さを変えて何度も行われていた.
 この水上機は何という機種なのか?そして,いったい何の目的でこのような実験を行ったのであろうか?現在,このようなことを調査中である.我々の探検は,これからも続いてゆく.

5.結語
 科学技術の研究に携わる者の多くは,「前へ前へ」という考え方で研究を進めるため,数十年来の技術の歴史を振り返る機会がほとんどないように思える.私はバイオテクノロジーを専門としているが,私も以前は,科学技術の過去にはあまり注意を払っていなかった.しかし,このような活動に参加して,見慣れたキャンパスに秘められた歴史を掘り起こしてみると,自分が今この地で研究活動を行っているという事実が,否応なしに科学技術の歴史の一ページとなっているのだということをあらためて認識させられた.
 現在先端研では,デバイス,システム,材料,社会科学,生命工学の研究者がノウハウを提供しあうことにより,人体モニタリングのためのシステムを開発するというプロジェクトが動き出そうとしている.異分野の研究者の学際的な協力のもとで一つの大きな目標を達成しようという考え方は,航研機のプロジェクトの理念が時代を超えて今に受け継がれているようで興味深い.航研機は技術史に燦然と輝く成果を残したが,はたして我々先端研のプロジェクトは,数十年後に振り返ったときに歴史の中でいかに評されるであろうか.そんな具合に大きな時の流れに思いをはせることが,今の私にとって,研究に対する新たなドライビングフォースとなっているような気がする.
 最後になりましたが,先端研探検団の活動は,先端研関係者の方々,および航空研OBの方々の全面的なバックアップにより成り立っているものであり,ご協力してくださったみなさんにこの場を借りて厚く御礼申し上げます.


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