地球環境問題と科学報道とMode 2
 松山圭子

新聞記事2題
 今年の2月初め、ある新聞(全国紙)の社説として「熱を惜しむ社会築こう『地球人の世紀』へ」と題する文章 [1] が掲載された。排熱を利用したエネルギー・システムを進めようという趣旨であった。その後、同じ新聞に「わが社の商品は“ペットボトル製”モテる再生繊維」という記事 [2] も掲載された。清涼飲料のメーカーと化学繊維メーカーが協力して、ペットボトルから衣料用の繊維をつくることになったという。私の身近にもいる、環境問題に関心を抱く一部の人々には、感動するニュースであったらしい。科学技術によってリサイクルが推進できるという意味においてである。
 しかし、排熱利用もペットボトル再生も、共通した落し穴がある。もともと排熱が多くなるようなシステムやペットボトルが大量に持ち込まれる状態は、決して喜ばしいものではないはずだ。ところが、捨てるんじゃない、再利用するんだとなると、大威張り(?)で排熱を出せる。排熱を少なくしつつ、そのうえで、絶対に無にはならない排熱を再利用するという姿勢が重要なのだが。ペットボトル入り清涼飲料も気兼ねなく購入できるようになる。そして、その点こそ、清涼飲料のメーカーと化学繊維メーカーが協力する最大の理由なのだ。ペットボトル入り清涼飲料を堂々と店頭に並べ、売上を伸ばして、繊維の原料も確保できるのである。まさに、地球環境問題は、科学技術の問題というより経済問題であるという格好の例だ。
 けれども、先の新聞記事からは、以上のような問題は見えにくい。

Mode 2科学研究での問題設定とマスコミによる議題設定
さて、科学技術のありようを2種類に分け、伝統的な(正統派の)科学技術のほうをMode 1と名づけ、Mode 1で説明できない科学技術のほうをMode 2と名づけて科学研究のシステムを文化多元主義的に論じた書物が、話題になっている。3月16日の第18回シンポジウムでも小林信一氏によって紹介されたし、STS-NJのなかの有志によって翻訳が着々と進行中のようである。(Gibbons,M.et al:The New Production of Knowledge:The Dynamics of Science and Research in Contemporary Societies, SAGE, 1994.)
 詳しくは、ニュースレター本号に掲載されるシンポジウム関係の記事を参照されたいが、このMode 1とMode 2とは、従来の基礎科学、応用科学という区分でもなく、同一専門家集団内で評価される研究か、学際的研究かという違いだけにとどまるものでもない。もっとも、シンポジウムでは、Mode 1、Mode 2という概念が果してそんなに新しいものか、有用なものかという疑義も投げかけられた。が、少なくとも、科学、技術、専門家、知識等について各人が考えるためのひとつのわかりやすい視座を提供したという意義はあると私は思う。
 このMode 1/2議論の中で今、注目したいのは研究対象とする問題の設定に関してである。Mode 1での問題設定が専門家集団の学術的関心(さらに言うなら個人的好奇心)によるのに対し、Mode 2では問題は、社会的応用も含むアプリケーションの文脈の中で設定される。
 一方、マスメディアによる報道の機能のひとつとして、議題設定(agenda setting)機能があるとされる。今まさに議論すべき問題は何か、日々の報道の中で、薬害エイズ、住専、オウム裁判、そして地球環境問題と設定されるわけだ。さらに、地球環境問題の中でも、まず優先して議論すべきは、リサイクルか、二酸化炭素排出規制か、くじらの保護か、マスコミによってかなりの部分が設定されている。
 ここで、Mode 2研究におけるテーマ設定、マスコミによる議題設定の前に共通してあるのは、何か。それは市民の目である。

前提となる市民
 研究の評価が、ピア・レビュー方式によるMode 1に対し、一般市民への責任を全うしたかどうかが重要となるMode 2においては、市民の問題意識が、評価の鍵を握る。そして、多人数の市民の問題意識に働きかけるのが、マスメディアである。そのマスメディアが、排熱利用やペットボトル再生をよいことと印象づけるような報道をするのか、「リサイクル社会」だからいいじゃないかということで、物をよけい使うことになってしまう(槌田敦氏)、と警鐘を鳴らす報道をするかで、市民意識における臨界状態を変えることがありうる。
 だから、報道は、両論併記で偏向なく―というだけでは、単純すぎる。発表ジャーナリズム科学版ともいうべき<科学啓蒙>、疎遠な知識や慣れない技術に対する感情的な<科学警戒>の両方が並んでいるからといって、それは偏向していない、まともな科学報道といえるだろうか。<科学啓蒙>も<科学警戒>も議論すべきテーマが何かを見えにくくしてしまう。
科学ジャーナリストの真骨頂は、科学の外から科学を見て「灯台下暗し」の科学者には見えないことを報道するところであろう(その先に、米本昌平氏のいう「科学評論」が成立しうるであろう)。そして、科学者集団の内側で問題設定も評価も完結するMode 1とは異なった、Mode 2科学研究にとって、科学報道の重要性は、Mode 1以上にはじめから自明のものであるだけに、科学評論的科学報道が要求されるのだ。
「地球人の世紀」という表現を使った社説は、その表現の中に、地球環境問題が国家主権を超えたものだというメッセージを込めたものであろう。このメッセージじたいは大切だ。が、この社説も、ペットボトル再生の記事も、私見では、<システム>の発見と構築こそ地球環境問題の最重要ポイントなのだというのが、本来のメッセージとして伝わるべきであった。そうすれば、具体的問題のそれぞれについて、大きな<システム>から小さな<システム>までを、いかにつくっていくかを研究することの必要性を、市民が研究者とともに考えられるであろう。
 知る権利も批判能力も有する市民の存在を前提としてこそ、科学評論的科学報道も成功するMode 2科学研究も、存立しうる。そして、地球環境問題こそ、そうした市民抜きでは考えられない問題なのだ。


[1] 朝日新聞(東京本社版)1996年2月5日付朝刊 社説
[2] 朝日新聞(東京本社版)1996年2月17日付朝刊 23面



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