できすぎた成功物語の陰でグールド先生が見つけるもの


鵜浦 裕(北里大学外国語センター専任講師)

 古生物学者スティーヴン・J・グールドの新しい翻訳『がんばれカミナリ竜』(廣野喜幸さんほか訳、早川書房、一九九五年一一月)が出たばかりだ。。本を開くと懐かしさがこみあげてくる。そういえば五年前、ハーバード大学サイエンス・センターの大講義室で聴いた講義が鮮やかによみがえる。
 この本は生命史や科学史のエピソードにあふれ、そのどれもがおもしろい。そこには勝者の立場から書かれる「できすぎた成功物語には必ずウソがある」というシニカルな姿勢が貫かれている。この懐疑主義を武器に、グールド先生は生物どうしの闘い、科学と宗教の対立、科学者どうしの争いをひもとき、歴史上の成功物語の陰に隠された真実をあばく。そのテンポはまさに痛快そのもので、今さらながら先生の洞察力と表現力に圧倒される。
 ただし、第八部の創造科学運動に対するレクイエムだけはいただけない。
 一九八七年の最高裁判決以来、グールド先生は雑誌、インタビューなどさまざまな機会をとらえて、創造論運動にとどめを刺したのは自分だと自負してきた。本書でも、
「一九八七年六月、最後の創造論州法であったルイジアナ州の授業時間均等化法が.... ....最高裁から無効を言いわたされ、アメリカ史の主要な一幕が閉じたのである」という表現が何度か繰り返されている。
 この法廷闘争では彼の根回しでノーベル賞学者による請願書が裁判所に出されるなど、彼こそ勝利の立役者だった。それだけに、いまだにその運動が息づいているとは口がさけても言えない。ギャラップ世論調査による創造論優勢の結果を突きつけられても、私立学校はもちろん公立学校でさえ創造論教育がいまだに続けられている事実を知らされても、創造論撲滅運動の旗頭の答えは変わらないのである。
 ところが九三年から毎年二、三月アメリカを訪ね歩いてみて、私はグールド先生とちがう見方をしている。大事件こそないが、カリフォルニア州だけでも大学教授ケニヨン事件、高校教師ペローザ事件、ヴィスタ教育委員会事件など、九○年代以降も小競り合いには事欠かない。しかもこれらはさきの最高裁判決が効いているなら起こるはずのない事件ばかりだ。創造論側の人たちは依然として創造論を公立学校の教室へ持ち込もうとしている。進化論側の人たちは司法は自分たちを守ってくれないとさえ感じている。こうした両者にとって、いったい、さきの最高裁判決にはいかほどの意味があるのだろう。
 ひょっとすると、グールド先生も「創造論vs進化論論争」について勝者側から成功物語を書いているのではないだろうか。だとすれば、彼の歴史的懐疑主義という刃は彼自身にも向けられることになる。ただし自分でそうするはずもなく、彼の歴史を書きかえるだけの力をもったライターもいないのではないかと、知り合いのK・Mさん(A新聞記者)は言う。確かに今はそうだろう。しかし、五○年後、一○○年後はどうか。第二、第三のグールド先生が出てきて、できすぎた成功物語の陰に葬られた事実をきっと掘りおこしてくれるにちがない。



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