「理科基礎をめぐって」シンポジウムに参加して

夏目賢一(東京大学大学院)




NJからの運営補助としてこのシンポジウムに参加する機会を得た。その感想を報告したいと思う。なお、運営の補助だったこともあり、(とくに最後のパネルディスカッションなど)ところどころ聴けなかったプログラムがあったため、内容には不十分な点があると思う。その限りであることをご了承いただきたい。

今回のシンポジウムは高校の教科をテーマにしていることもあり、高校教員の参加が多いようだった。配られた名簿に目を通すと、半数近くは高校教員で、それに大学教員と出版関係者が続くかたちだったようである。所属もわりと全国に散らばっていて、このシンポジウムに対する期待をうかがわせた。

参加者の理科基礎に対する意見は、「このような科目ができるまでもなく、これまでも理科を教えるためには科学史が必要であった」という積極的な意見(これは、かならずしも「理科基礎」を肯定する意見ではないだろうが)から、「このような科目は、カリキュラムの模索の過程で産み出された試験的なもので、数年後には廃止されるだろう」といった否定的意見、また「このような薄く表面的な教科書で、理科の教育とするとは、生徒をばかにしている」といった怒りの意見までさまざまであった。その中では、「科学史の持つ可能性をあらためて実感するようになった。今後の展開に期待したい」といった意見が大半だったように思う。

ただ、この可能性をうたった意見は裏を返せば、大半の教師が、現状ではまだ理科基礎の可能性をうまく引き出せていないことを示している。そして、(先の積極的な意見とはうらはらに)これまでの現場の理科教育においても、科学史はあまり取り入れられてこなかったことがわかる。この傾向は、最初に発表されたアンケート結果にもはっきりとあらわれていた。肯定的な意見のほとんどが、これまで機会に恵まれなかった科学史の知識を伝える機会を持てるようになった、といった喜びの意見ではなく、教師自身が科学史のおもしろさを新たに知って可能性を感じている、という期待の意見だったからだ。

もっとも、このシンポジウムの参加者は肯定的であれ否定的であれ理科基礎に対して関心の高い人たちだと言えるだろう。そのため今回の参加者の傾向によって理科基礎に対する教員一般の傾向を測ることはできない。これは先のアンケート結果についても同様であろう。アンケートに回答を寄せた集団が、教員全体という母集団に対してどういった傾向を持つのかといった質問がなされたが、その質問については、当の報告者も歯切れの悪い回答しかできなかったし、それは仕方のないことだと思う。

そうした状況にあって、やはり個性的な授業報告に注目が集まった。目立っていたのは、進学率の低い、どちらかというと入学試験の偏差値の低い学校で工夫されている授業の、いきいきとした報告であった。これは偏差値の高い進学校において、理科基礎が名目だけの科目となり、実質は他の理科総合の教育がおこなわれているといった報告や、卒業のための便宜的な単位取得の手段になっているといった報告とは対照的だった。先のアンケート結果には、理科基礎の内容が多岐にわたっていて難しいという教員側のとまどいがはっきりとあらわれていたが、皮肉にもそういった見解とはうらはらに、それほど科学史の知識としては難しいことをおこなっていない授業が、このシンポジウムでは成功例として発表される形となった(事実、他の講演よりもこれらの授業研究のほうが会場の参加者たちの注意を喚起していたようだ)。教師が難しいと感じる内容は生徒にとってもかなり難しく感じられるはずで、その難しく扱いにくい内容を咀嚼しないままに生徒にも要求して授業をおこなった場合、理科基礎が充実した科目として実施される率が低下することは、明らかなように思える。しかし、こういった授業報告を見ると、理科基礎はかならずしも科学史の多岐にわたる知識が必要なわけではなく、難しい科目であるという教師側の見解も、前例がないぶん優等生的(あるいは教科書的)に科学史と向き合ってしまい、理科基礎にもそういった見方をそのままあてはめようとしてしまった結果かもしれないと思った。

そういった教員の側の戸惑いをあらわす意見として、とくに今回のシンポジウムでは、授業のために調べようとしてもいい資料がなく難しいという切実な声が多くあった。図書館に行けば科学史関係の本は多く手に入る現状を考えると、こうした声があらわしている状況は単純なものではないと思う。おそらく、高校生が新しい科目を勉強するにあたってたくさんある参考書からどの参考書を選んだらいいかわからず、どの参考書も手につかないといった状況に近いような状況が、今の高校教員をとりまいているのではないかと思う。一つには教員の側でまだ科学史を扱う準備ができていないということと、もう一つには多く出版されている科学史の本の内容が、教育のニーズには合っていないということもあるのだろう。そういった意見に対して化学史学会側では、高校教員へ学会に参加することを勧める(そうすれば学会誌によって研究動向などがつかめるということがその理由である。これは他の分野に置き換えて考えてみるとわかるように、少々無理なアドバイスのような気がする)とともに、翻訳などの通史の出版を通して科学史の知識を身近にしていきたいといった回答がなされたが、どうもその場の雰囲気としては釈然としないものがあり、やはり両者のあいだには溝が感じられた。

それともう一点、注意をひいたのが、生徒が理科基礎を選択する際の動機として「理科があまり得意でないので基礎から勉強するため」あるいは「中学の時しっかり勉強しなかったので基礎からやりたかった」といった理由をあげているという報告であった。カリキュラムの移行期では仕方がないことかもしれないが、その生徒の人生に対して、これは罪なことだと思った。理科基礎は、カリキュラムや内容上、その次の段階(理科総合の科目)への基礎となるわけではないからだ。こういった例からも教育現場の混乱がひしひしと伝わってくる。

こうしてシンポジウムに参加しながら、理科基礎という科目を、可能性の科目から実際に充実した科目へと早く成熟さなければいけないと感じた。そのためには教員や政府関係者など理科基礎の教育に関わる側の情報交換を頻繁かつ発展的におこない、担当教師がその教科のイメージを具体的に立てることができるような状況を早急につくり出す必要があると感じた。

後日、渡辺正雄氏の『科学史の小径』という本を読んだ。その本には「大学教師の金メダル」というエッセーがあった。内容は、渡辺氏が新設の女子短大でカリキュラムの穴埋めのようにしてできた「自然科学史」の集中講義の非常勤講師を引き受け、そこで通常は私語のたえない学生たちを相手に、彼女たちを私語がまったく出ないほど講義に引き込んで、大成功を修めたという話である。もちろん渡辺氏ほどの博識と経験があればこそ、こうした講義が可能になるのかもしれない。もちろん私も講義に参加したわけではないので、この講義で具体的にどのような要因が大きく働いてこうした成功を収めることができたのか文面からは計りかねる(もっとも、講義の内容や進め方についての記述はあるのだが、その記述からは十分に推し量ることができなかった)が、先のシンポジウムで参加者の多くが理科基礎に抱いていた可能性とはこういった授業をさすのではないだろうかと思いながらこの本を読んだ。また、昨年発売された山本義隆氏の近著は、科学史の本としては異例の売上を伸ばしているようである。こういった成功例を考えると、科学史に対する期待と可能性は大きく、しかしそういう期待にこたえられていないのが現状なのだろうと思う。科学史を専門としている自分としては、自分の専門的な研究はもちろんだが、いかに歴史を興味深く語ることができるかということはとても重要で、そういった可能性を具体化するための努力を続けていかなければいけないと強く感じた。




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