STS Network Japan2002年度春のシンポジウム
『技能知への視座』報告

三村太郎(東京大学)




日時:2003年3月22日(土) 13:00〜17:30
場所:東京大学先端科学技術研究センター13号館3階講堂

講演:
上野直樹氏(国立教育政策研究所)
西阪仰氏(明治学院大学)
コメンテーター:
橋本毅彦氏(東京大学)

 今回のシンポジウムでは、タイトルからも窺えるように、「技能知」というタームを中心にすえた。実のところ、本シンポジウムのコーディネートに当たって、この「技能知」をいかに解釈するかという大問題を、講演いただく皆さんにお任せしてしまい、こちらからの統一見解を提示せずに進めた。このような進め方をとったのは、コーディネーター自身が、「技能知」に関してはっきりした見解を持っていなかったことが大きな理由であったが、同時に、解釈をオープンにすることで、多様な見解を並行させ、相違点を明確にできるのではないか、という期待も含んでいた。また、多様な知見を得るためにも、できるだけSTS関係でない方を講演者にすえようと、今回、上野直樹さんと西阪仰さんに講演をお願いすることになった。
 コーディネーター自身は、科学的知識に還元できない「技能知」の性格の探求を目指していた。すなわち、古来、一般の人々に尊敬され、あるいは畏怖された「技芸」「技能」とは何か、さらには、なぜ技能知を持つものは尊敬され畏怖されたのかを、技能知の振る舞いを見ることで理解できるのではないか、という期待を持っていた。
 まず、上野直樹さんから、「社会システムとしての技能」という題で講演いただいた。具体的には、コピー機修理をめぐる状況をとりあげることで、社会システムとしての修理技能という側面を明確にしていただいた。コピー機の修理とは、ただコピー機を修理するというだけではなく、コピー機を取り巻く社会システム(具体的には修理担当者のサービスエリアを軸とした社会システム)を修理している、という視点を上野さんは提示した。その際、修理にまつわる知識が、その社会システムに影響を受け、知識の社会的組織化といった現象が見受けられるという。まさに、技術の中心たるコピー機を扱う際、コピー機のみをじかに扱っているのではなく、それを取り巻く社会、いわばコピー機の設置されている舞台を修理し、かつその舞台設定に依存しているといえる。
 つづいて、西阪仰さんから、「対象の組織化-暗黙知について-」という題で講演いただいた。暗黙知という概念は、使い勝手がいい反面、たいへん危険な概念だという。そこで、まず、想像のイメージへと考察を向ける。いわく、イメージとはそもそもロケーションを問えるものではないが、一方で、何か目の前にある感じがするという。その際、子供たちの言い争いなどにおける会話とそれに伴った動作の綿密な分析を通じて、「環境に埋め込まれた身振り」(ある種の環境においてはじめて意味を持ってくるような身振り)を浮かび上がらせる。さまざまな事例の考察を通じて、西阪さんは、「イメージを見る」際、ある舞台をセッティングして、道具や身振り(活動)を伴うことで、イメージを実際の目で見ているのである、と結論付ける。そういった「環境に埋め込まれた身振り」を軸に、いままで暗黙知として提示されてきたものが、じつは暗黙(頭の中)で知られていたのではなくて、ある種の環境や活動に依存して知っているものであって、いわゆる知識とは「知り方の違う」ものではないか、と示唆する。
 最後に、橋本毅彦さんから、コメントをいただいた。その際、歴史学の場合、どうしても文献中心となるため、対話・身振りといった側面をシャットアウトしがちだという。その中で、実験プロセスを克明に残したファラデーに関する研究は、成功した例だという。
 以上、お三方に多様な視点を提示していただいたのだが、コーディネーターにとってたいへん興味深かったのは、ある種の状況(舞台)に依存した知、という見方である。西阪さんの講演から、まず、知とは、舞台・動作・発話に依存するものであることが分かる。さらに、上野さんの講演から、ある種の知(上野さんの例ではコピー修理技能)が、舞台(サービスエリア)に依存し、さらには、その舞台を動かす(修理する)ことがわかった。
 以上の考察を敷衍してみれば、一般的に知が舞台に依存しているとすれば、尊敬され畏怖される「技能知」とは、舞台に依存しているだけではなく、さらに舞台を動かすことができるほど強力な知(とそれにともなう活動)だったのではないか。言い換えれば、そういった力を持った知こそが「技能知」だと性格づけることが可能なのではないだろうか。
 そして、西阪さんが挙げた自転車の例は興味深い。いわく、我々は自転車の乗り方を知っている一方で、ある曲率でバランスをとっているという事実を提示された際、「すごい」と思ってしまうだろう、と。この例は、まさに、技能知と科学知の差異を際立たせているように思われる。技能知が、舞台を動かすとはいえ緩やかに動かす一方で、科学知は、なかば強引に舞台を動かし、いやむしろ舞台を書き換えることで、それまでの動きを乗り越えていってしまう。いわば、科学知は、曲率といったようなロゴスで特徴付けられるある種の強力な言語で舞台を書き換えてしまうのではないか。そういった科学知によって書き換えられ、揺り動かされた度合いの大きさに直面して、人間は「すごい」とつい漏らしてしまうのではないだろうか。
 このように、知っているとは何か、また、技能を発揮するとは何かを、多くの事例を眺めることで、ようやくその振る舞いの輪郭が見えてきた。大いなる収穫を胸に、より鮮明に、技能知を探求し、語り続けなければならない。




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