市民会議は「コンセンサス会議」か?

絹川 智史(京都大学大学院農学研究科生物資源経済学専攻)




はじめに

まず述べておきたいのは、私の立場は決してGM技術に対しては反対ではないということである。大学に入学して以来農学について学んできたなかで、現在の日本の農業生産がどれほど近代的な技術体系に依拠しているかは十分認識しているつもりである。私は、GMOについてもそれらの技術の延長線上にあるものと理解している。たしかにGM技術のもたらす技術発展のスピードはこれまでにない凄まじいものであるとはいえ、その結果生み出されるものについては従来の科学技術の枠からはみ出したものであるとは言えないであろう。私はGMOが将来の人類の幸福に寄与しうるとも信じている。

しかし、そんな私から見ても今回の市民会議「食と農の未来と遺伝子組換え農作物」は問題が多かったと言わざるをえない。一言でいえば、そこにはGMOに反対する人々の声を周到に排除する構造があった。

反対派の声を排除する構造

藤垣裕子氏はコンセンサス会議の中立性を「情報バイアス、説明者や専門家パネル選択プロセスへのバイアス、市民パネル選択プロセスへのバイアス、コンセンサス作成プロセスに混入するバイアス、そしてそれが利用されるプロセスにおけるバイアス」という観点から検証することの必要性をあげている[1]。それらの観点から今回の会議を検証してみよう。

初日に説明をいただいた専門家の選考については、7人中5人がGMO推進派であったこと、残りの2人も消費者団体の立場から食品の安全性に限定した話をされたことなど、私たちが与えられた情報は非常に偏っていた。つぎに市民パネルの選択におけるバイアスについては、本来「市民とは何か」という根源的な問いを無視してそのサンプリングの妥当性を論じることは出来ないのであるが、ここでは理系学生と文系学生がほぼ1:1であったこと、15人中6人が修士課程1年生、8人が大学4年生、1人が3年生であったことを参考として述べておきたい。さらに重要なのは、今回の会議がGMOの実用化を目的として開かれたものであるという点である。そのことは市民会議事務局の作成した「パネリスト参加についてのお願いについて」で「遺伝子組換え農作物の実用化を図るにあたっては、…市民の遺伝子組換え農作物に対する理解の促進を図るとともに、市民の不安や要望等に的確に応えていくことが重要となっています」と書かれていることからも明らかである。この会議の開催目的を了承した者のみがパネリストに応募したことを考えると、応募者の中からは無作為に抽選でパネリストが選ばれたとしても、パネリストに応募する段階ですでに応募者に一定のバイアスがかけられていたと見るべきであろう。コンセンサス作成プロセスでのバイアスについては、STAFF職員が直接グループ討議に参加する機会が許されているなど問題は大きかった。利用段階でのバイアスについてはこれから検証していく必要がある。

しかし、藤垣氏はここでより重要なバイアスの存在を見落としている。それは会議の目的設定自体が多分にバイアスをはらんでいるという点である。今回の市民会議の課題は「遺伝子組換え農作物の未来について話し合い、予測するとともに、予測した未来に対しての問題点や課題を挙げ、それを解決するための要望等を『課題と提案』としてとりまとめ」[2]ることであった。つまり会議の目的を大きく3つに分けると、GMOについて(1)未来を予測をし、(2)課題を挙げ、(3)提案をすることであった。そのことを了承してパネリストは参加しているとしても、その3つのどれを重視するかということで会議の意義は大きく変わってくる。それについては当初ファシリテーターと事務局の間でも認識のズレがあったようである。

「提案」を重視する問題点

 (1)未来予測、(2)課題、(3)提案、このどれを重視するかということで会議の意味はまったく変わってしまう。会議中それをめぐってパネリストとファシリテーターの間では激しい議論がなされた。ファシリテーターは客観的な「未来予測」をまず行い、それに基づいて「課題」を挙げ、「提案」を行うべきことを主張した。一方、多くのパネリストにとっては各自の問題意識から切り離して「課題」を挙げていくことは不可能に、また無意味に思われた。結局のところ「未来予測」と「課題」はセットで文書化するということで合意を見たのだが、事務局の思惑はこの両者とも異なっていた。

事務局にとっては「提案」こそが今回の会議の主眼であったようだ。そのことはSTAFFにとり会議で作成される「課題と提案」が「農水省への提言」として認識されていたことに由来する。彼らにとっては「未来予測」も「課題」もそのための下準備に過ぎなかった。実際、「課題」作成過程における彼らの態度は「提案先にありき」というものだった。さまざまな局面でファシリテーターを通してSTAFFの影響が入り込んだ今回の市民会議では、報告書の形式を決定する上でも彼らの意向は当然強く反映された。

たしかに今回の会議の目的は「課題と提案」の作成である。しかし、なかには「課題はあるが、それに対する有効と思われる提案は思いつかない。」という答え方があっても構わなかったはずである。たった4日間しかない日程のため、パネリストは十分な議論を尽くせてはいない。さらにパネリストはその問題に対して十分な専門的知識を持ち合わせていない。そのような状況で作られた「提案」は、その「課題」に対して的外れではないとしてもまず間違いなく不十分なはずである。

「課題」については、それを「市民の感じる不安」と読み替えれば、素人にも十分作成可能であり、GMOを推進する上でそれが市民会議で議論されることの意義は大きいだろう。しかし「提案」に関しては、市民の知識でそれを議論することには限界があり(私自身はそうすることの無責任さを感じずにはいられなかった。)、専門家に市民の作成した課題をもとに市民が「これなら安心!」と思える対策を考えさせることのほうが重要と思われる。専門家でもない私たちがわずか何日か頭をひねっただけで、GMOの引き起こすかもしれない諸問題に対して必要十分な対策を考えられたとは到底思えない。むしろ1日もかけずに議論され作成された「提案」が、その後の政府のGMO推進政策の中で「市民の要望に応えている。」という答弁を可能にすることの危険性を感じる。

さらに市民会議の暗い未来として予想されるのは、それが政策推進上のただのプロセスの一部として組み込まれてしまう場合だ。「政策決定」→「市民会議の開催」→「政策推進」という過程が出来上がってしまった場合、その政策が引き起こしうる様々な問題に対する市民の不十分な「提案」は、その政策を推進する上で「市民の心配には十分応えています。」と言わしめるため以外の何ものでもなくなってしまうだろう。農水省が市民会議に期待していることについてもう少し善意的に解釈してみても、会議の参加者にGMOの有用性あるいは不可避性を認めさせたうえで、「でも市民はGMOのここが心配なんです。」という箇所を聞き出すことによって、その対策を考えGMOの普及に役立てていこうということだろう。しかし、もし農水省が今後GM技術を発展・普及させるという文脈のなかで市民の感じる不安に本気で応えていこうとするのであれば、行政として必要なのは閉鎖的な空間で市民の意見を吸い上げることよりもむしろGMの専門家や企業の研究者と市民が広く対話する空間を用意することではないだろうか。

そう考えたならば、今回の市民会議の持っているこれまでにはなかった側面に注目することができる。たしかに今回の会議は専門家と市民の対話という観点からは極めて不十分であった。しかし今回確実に実現されたのは、パネリストどうしの対話、つまり理系学生と文系学生の対話(あるいはGM研究者のたまごと市民のたまごとの対話)である。そこまで考えれば今回の市民会議の意義は一定程度評価できるものとなる。研究者が他の分野の人と学際的に話し合うことにより考え方にどう影響するのかを知るためにも、今回パネリストとして参加した学生の中で実際バイオに携わっている人の感想は是非聞きたいものである。

グループ別作業の妥当性

今回の会議の議論進行上の特徴として、テーマごとに3つのグループが編成され(「技術班」、「消費者班」、「グローバル班」と呼ばれた)、議論や報告書の基となる原稿の作成がそこを軸として行われたことが挙げられる。各人はそれぞれの意思でどの班に入るかを選択したのだが、グループ間の人の異動はほとんどなく、さらに各班の原稿が出来上がったのは最終日であったため、その後その内容の妥当性について全体で話し合う時間は十分になく、仮にそこでそれまでの議論が十分に反映されていないと感じたとしても根本的な修正を行うことは困難であった。 議論が完全に分業化された中でなされ、各人が他班の議論された内容については全体のコンセンサス形成のなかでもほとんど関与していないという状態には批判があるだろう。しかし、わずか4日間という時間である内容について考えそれを文書化しようとしたとき、ある種分業制の存在は不可欠であった。その仕組みのなかでは、各自がそれぞれの関心事項に従って課題に取り組むのが最も効率がよい。実際、今回報告書を完成させるための手段として作業部会のようなものの出現はやむを得ない選択肢であっただろう。ただしそれは与えられた枠組み内での妥当性を述べているにすぎない。次のような視点から問い直した時、その答えは変わってくるかもしれない。

  1. 「要求された課題をこなすのに4日間という日程は適切だったか?」
  2. 「そもそも市民会議の目的として、報告書の作成という側面のみが肥大化してよかったのか?」
今回の報告書は分業体制で作成された原稿を最終日に寄せ集め、内容は吟味されないまま形式だけ整えたものである。そのために、報告書全体を見渡せば、内容についておそらく調和のとれていない整合性に欠けたものとなっているであろう。しかし、だからといって今回の報告書は読む価値が無いものなのか?そうではない。むしろそこに着目して報告書を眺めることによって、いったん表には出たが議論の過程で隠されていった論点や主張を蘇らせられる余地が生まれる。今回の会議でコンセンサスを得られたものは何かということももちろん重要な意味をもつが、読者には報告書の持つぎくしゃく感の中にその葛藤こそ読みとってほしい。

グループ間の壁が厚くなってしまったもう一つの大きな理由は、15人中14人が大学4年生と修士課程の学生で占められていたことの影響でもあろう。市民がニュートラルな存在である必要は全くないにせよ、これだけはっきりした知識背景をもつ者が15人集まって議論すれば、必然的に各分野の専門家が集まって議論した時と同じ種類の対立構造が生じてしまう。ならば専門分化の弊害を意識的に避けるためには、次回用意される市民会議は高校生を対象としたものとでもなるのだろうか。

もし高校生を招いて市民会議を行えば、蛸壺に入った議論は避けられるであろうかわりに、逆にパネリストのその「何者でも無さ」が問われることとなろう。参加者一人一人のよりどころとなる専門的知識の深さと全体的視野の広さとの兼ね合いの問題である。また、今回の会議に参加したパネリストの間では、複数の人間が「私たちの出す提案がどのように利用されるか分からない」という危険な構図を嗅ぎとるだけのセンスを有していたと思われるが、高校生にそれを期待してよいのかという疑問もある。すると会議を開催する者は外部から「誘導があった」と烙印を押されるリスクを引き受けざるを得なくなる。

「コンセンサス」の射程

4日間という日程の短さのため、各班ごとの認識の違いという潜在的な対立がはっきりした途端に会議は終わってしまったという感じだ。潜在的な対立がそれらの立場の違いを超えたコンセンサスに昇華されることは決してなく、あるものはほとんど両論併記に近い形で強引にまとめ上げ文書化され、あるものは十分議論されることもないまま少数意見として排除されざるをえなかった[3] 。蛸壺のなかで原稿を作り、それを無理やりくっつけて、形式だけ整えてそれを「コンセンサス」と呼ぶ。そこで得られた「コンセンサス」とはいったい何なのだろう。

もっとも、「市民会議」は「コンセンサス会議」とは別物という主張も成り立つ。しかし、あくまで今回の市民会議は2000年に開かれた「遺伝子組換え農作物を考えるコンセンサス会議」の延長上として位置づけられており、会議で得られた合意は市民のGMOに対するコンセンサスとして認識されかねない。作成された「課題と提案」が「コンセンサス」という名称で語られるかぎりにおいて、合意が「誰の」「何についての」コンセンサスかということに注意を払わねばならない。

それがいったい「誰の」合意なのかということについては先に述べた通りである。それは無味乾燥な「市民」や「国民」といった概念で括れるものではない。もっている背景も、パネリストに応募した動機もさまざまな15人の大学生が集まって、全体で、あるいはグループに分かれてGMOの未来予測と課題と提案について考えた成果が今回のコンセンサスなのである。

「何についての」コンセンサスなのかを見極めるためには、実際の会議の進行過程に着目する必要がある。今回の会議では「技術」「消費者」「グローバル」を3つの大きな柱として議論が深められたのだが[4] 、そのことは結果としてどのカテゴリーにも含まれないテーマを対象から排除してしまうこととなった。たとえば、GMOの日本農業への影響などについても会議の場で発言されることはあったのだが、時間の制約等によりその後立ち消えになってしまった。もちろん報告書では言及されていない。最も重要なのは、報告書に載っているのはその場で話し合われたことの一部であるという点である。つまりGMOについてのパネリストの意思全体が「課題と提案」としてまとめられているわけではなく、議論の俎上に上ったもののなかで全体の合意を4日間のうちに形式的には得られたものだけが「コンセンサス」として報告書に載せられているのである。実際に何が議論されたのかだけでも明らかにするように、議事録は公開するのが理想である。もしそれが技術的に困難なら、せめてパネリストを含め会議の出席者らが、中でどのような議論が行われたかについて少しでも多くの情報を外部に対して明らかにしていく必要がある。また、会議の趣旨から言って、今回のコンセンサスの内容はGM政策のあり方についての市民のコンセンサスなのではなく、GM推進上の課題とその解決法についてのコンセンサスになのだということを最後に述べておきたい。



[1]‐市民会議‐「食と農の未来と遺伝子組換え農作物」パネリスト参加のお願いについて
[2]藤垣裕子「コンセンサス会議に『説明者』として参加して」STS-NJ News Letter第40号
[3]ただし少数意見は報告書には載せないということについてのコンセンサスは得られている。
[4]それ以外にもう一つの柱として「環境」というテーマがあったのだが、それについては一部を技術班が、残りをグローバル班が分担した。




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