2002年度秋のシンポジウム「ユニバーサルデザインの可能性」

シンポジウム感想及び報告




2002冬のシンポジウム「ユニバーサルデザインの可能性」に参加して

聖隷クリストファー大学 安孫子誠也
12月21日(土)13時より表記のシンポジウムが、東大先端科学技術センターで催された。このシンポジウムは当初12月8日(日)に予定されていたものであるが、前日の7日(土)に科学技術社会論研究会(テーマ「人体実験の政治学」)が開催されることなどによって2週間延期になったもののようである。STS関係では、従来当NJが主体を担ってきていたが、その他に前記「研究会」があり、さらに昨年「科学技術社会論学会」が発足したりしたので、当NJの存在感が薄れ継子扱いにされてきている感がある。しかし、「研究会」と「学会」が専門家主義(いわゆるhigh church)の方向性をとる中で、当「NJ」が若手を主体としてSTS本来の姿である一般人の立場からの科学技術批判(いわゆるlow church)の姿勢を貫いているのは頼もしいかぎりである。今回のシンポジウムは、その意味でも良い前例をなすものといえる。取り上げられたテーマ「ユニバーサルデザイン」は、他のSTS団体にみられないものであり、当NJの担い手である若手だけがもつ斬新な感覚を伺わせるものであった。
2週間延期された関係でクリスマス寒波にかかり、当日は異常低温の上に土砂降りの雨が重なって最悪のコンディションの中での開催となった。13時という開始時間の設定にも多少問題があって(昼食を済まして家を出るとどうしても14時になってしまう)、最初の集まりは悪かったが、それでも終了する頃にはかなりの聴衆が集まっていた。 最初の講演は独立行政法人建築研究所の古瀬敏氏による「ユニバーサルデザインの思想」であり、ユニバーサルデザインとは何かを主題とするものであった。それによると、それは「年齢、性別、能力の如何にかかわらず、すべての人のためをめざすデザイン」とのことである。最初に指摘されて印象に残った点は、この「能力(ability)」を「障害(disability)」と訳してはならない、というものである。そのように訳すと「われわれ―彼ら」という対立軸が導入されてしまい、自分自身を含めて「すべての人」の問題であるという本質が覆い隠されてしまうからとのことであった。古瀬氏はいいデザインの必須条件として、「安全性」、「アクセシビリティ」、「使い勝手」、「価格妥当性」、「持続可能性」、「審美性」の6つをあげられたが、これらの条件は、いわゆるデザイン物にかぎらず、あらゆる技術的産物にとって共通の必須要件であるように感じられた。古瀬氏はまた、行政に関わってこられた経験から、行政による対応の拙さ(介護保険における住宅改修費用の問題、交通バリアーフリー法における厳しい参入規制の問題)などを指摘され、興味深く伺った。
次の講演は早稲田大学の卯月盛夫氏による「都市デザインへの市民参加」であり、氏が手掛けた世田谷区梅丘における「参加のまちづくり」を例にあげて話された。それによると、まちづくりを進めるには「組織づくり」「計画づくり」「ものづくり」「ルールづくり」の4つが必要とのことである。また、氏は「共生のまちづくり」として3つの分野、「自然環境と開発の関係」「歴史環境と開発の関係」「(障害者、高齢者、外国人、子供を含む)すべての人が安心して生活できる住まいづくり、まちづくり」をあげられたが、これもやはりあらゆる技術的産物について共通の要件であると感じられた。氏のお話で興味深かったのは、車椅子の方でも使える電話ボックスに「車椅子マーク」をつけるべきではないという指摘である。何故かというと、それが「バリアフリーデザイン」と「ユニバーサルデザイン」の違いであり、後者は「特別なサインなしでも誰もが使いたくなるような、そして誰もが使えるデザイン」だからとのことであった。氏のご講演の特徴は、具体的な観点と抽象化された観点が上手に組み合わされている点である。たとえば、氏は今後の展開へ向けて次の5つの視点を提示されている:「当事者参加を目指す」「80%、90%、95%の人が快適に使えるものを追い求め続ける」「安全な物は美しい」「人間の活動、行動は常に連続しているので単体のデザインを面的なデザインにつなげてゆく」「車椅子マークのない社会の実現をめざす」。
次に予定されていた肢体不自由者である医師、熊谷晋一郎氏の講演は、患者の様態急変のために取り止めとなり、残念なことであった。最後は、国士舘大学の木原英逸氏による「人工物の権力論:リベラリズム/ノーマリゼーション/ユニバーサルデザイン」であった。氏によると「批判とは、批判する者が、批判される者の行為に対して、ある基準に照らせば別でもあり得たと仮想し、より広い可能性のなかで相対化し限定すること」であり、その意味でユニバーサルデザインとは、科学技術批判さらにはより一般に社会批判という認識につらなるとのことである。そして、ユニバーサルデザインの場合に照らされる「ある基準」とは、「すべての人それぞれの前に、利用可能な選択肢の集合つまり機会集合を開き、各人の自己決定の実質を確保しようとの価値基準」とのことである。その意味で、それは批判の基準を「リベラリズムという政治思潮に負っている」という。また、「選択の自由を必要な制約の中で最大化する原理つまりノーマリゼーション原理、もまたリベラリズムを介してユニバーサルデザイン思想・運動へとつながる」とのことである。この「ノーマリゼーション」と「ユニバーサルデザイン」との関係は大変興味深い点であるが、その点の詳細は別の機会に譲るとのことで、これも残念なことであった。
これらの講演終了の後、総合討論へと移った。最初に司会者である中村征樹氏が、ユニバーサルデザイン教育について質問された。講演者によると、大学・専門学校等でそのような教育は現在全く為されておらず、デザインとは未だに芸術作品を作ること、あるいは商業的に成功するものを作ることという認識が一般的、とのことであった。次にどなたかが、「スタンダード化(標準化)」と「ユニバーサル化(普遍化)」の違いについて質問された。講演者による応えは、製品の標準化とは製品どうしの互換可能性を保証することであるにすぎないが、普遍化とは限りなく100%に近い人々に使えるようにしてゆくこと、とのことであった。また別の人は、「ユニバーサルデザイン」と「テーラーメイド医療」のような個別性を尊重する考えとの関係について質問された。講演者は、それらは互いに補い合うものではあるが、ユニバーサルデザインの方がより重要性は大きいと応えられたと記憶している。私自身は、ユニバーサルデザイン運動を進めてゆく上での、運動の担い手は何かについて質問した。講演者による応えは、私的使用に供する物品については市場、インフラストラクチャーに関するものは行政だが、どちらについてもその運動推進の原動力となるのは市民による選択や市民運動である、とのことであった。
最後に私は木原氏に、ユニバーサルデザインの思想が、自己決定の基準に基づくリベラリズムの政治思潮に負っている、と本当に言えるのかどうかについて質問した。というのは、生命倫理の方面で、米英における自己決定に基づくリベラリズムの考えと、ヨーロッパ大陸における公共性のために個人の自由はある程度制限されるという共同体主義の考えとがあり、ユニバーサルデザインの考えは後者の方により近いように思えたからである。木原氏の応えは、リベラリズムの追及が結果的に公共性を保証することになる、というものであったが私にとって納得のゆくものではなかった。たとえば、ユニバーサルデザインの追及は、芸術性の追求や商業的成功へとつながる贅沢感の追求などの自由を、場合によっては、生産者と消費者の両方の側において制限することになるのではないだろうか。リベラリズムの政治思潮は、大量生産・大量消費に基づくアメリカン・ドリームと不可分なものであり、ユニバーサルデザインの思想はそれとの決別を意味するものであるように感じられたのである。
家に帰って新聞をみていたら、家庭でも使える携帯用の人工透析器発売の記事が載っていた。そしてさらに、それが医療費の削減に大きくつながるとも書いてあった。これなどは、医療の分野におけるユニバーサルデザイン思想の浸透を示している一例なのではないか、と思った次第である。




小板橋恵美子(東京大学先端科学技術研究センター) 今回、STS Network Japanのシンポジウムに初めて参加させていただいた。本シンポジウムは、古瀬氏の「ユニバーサルデザイン(以下UD)の概念」の紹介に始まり、卯月氏の「まちづくり」の概念整理とその実践例から「UDを推進する上での当事者(ユーザー)参加の重要性」を確認し、木原氏の「UDはモノのデザインにとどまらず、社会システムのデザインまで応用可能なものであり、すなわちリベラリズムの追求に他ならない」とする主張へとつながるものであったと捉えている。
 各シンポジストによる話題提供後の討論では、UDとスタンダード、地域性などが取り上げられ、UDに対する新しい視点を与えていただいた。そのほか、シンポジストが共通してユーザーオリエンテッドの開発・実践の重要性を指摘していたように、ユーザー不在のモノはちまたにあふれ、デザインの本質とは機能と美をいかに両立させるか、ということであろうにもかかわらず、できていない現実があると思う。それが高齢社会になって様々な不具合を発生させ、UDの重要性が認識されてきたと思っていたのだが、木原氏による解釈、つまりリベラリズムの追求や科学技術の進展のありようにも踏み込んで議論できる素地をUDは持つといえようとの話は非常に興味深く拝聴した。
 さらに、バリアフリーとユニバーサルデザインの違いに、時に混乱することがあったが、バリアフリーとは「その人(使うその人)」のための障壁除去であり、一方UDとは「その人」にあうようにデザインされるが、最終的には「その人」が拡大され「みんな」が使えるデザインである、との理解が実感として得られたことが大きな収穫である。
 有意義なシンポジウムを企画し、案内くださったSTS Network Japanのみなさまに篤くお礼申し上げます。






[戻る]
Copyright (C) 2002, STS Network Japan
All rights reserved
For More Information Contact office@stsnj.org