2001年度春のシンポジウム『STSから考える市民運動』

参加者感想




西村名穂美(法政大学)
 STSNJのシンポジウムに参加するのは、今回が初めてだった。会場には四時間以上もいたのに、とても短かったという気がしている。定刻の終了時間を過ぎても、議論は収束へと向かいそうになかった。多分、無難な「落ちどころ」へと向わないような、いくぶん批判的な意見が述べられたためでもあるだろう。それらの意見をきっかけとして、さらに議論が展開しそうな気配も見られたものの、残念なことに既にタイムアウトであった。それらの批判のうち一つは、およそ次のような内容である。――今回のシンポジウムに参加して、いくつかの点で「行政のやってきたことと同じような」姿勢を感じた。つまり市民団体であっても、結論が予め決まっているかのような姿勢で議論に臨み、相手がいかに間違っているかを,証拠だてることに終始するなら、結局行政と同じような難点に陥るだろう。話し合いにあたって、反対意見を頭から否定するような強硬さを変えない限り、本当に相手を説得することはできないはずだ。ときには「自分の意見を引く用意がある」という姿勢を見せることも大事ではないか・・――。
 コメントの主旨は、およそ上のようなものであった。このコメントに対して、パネリストの一人である柳田氏は、ご自身の報告を顧みつつ、今回のシンポジウムの狙いに言及した。この席で自分が話すように依頼されたのは、少なくとも直接は原子力政策をめぐる是非ではなかった。むしろ議題にすべきとされていたのは、自分たちの活動目的や意図、動機、そして運動をめぐる困難や今後とりくむべき課題などについてであった。その依頼に応えるうえで、つい力をこめて自分の見解を話しすぎてしまったかもしれないし、それが昂じて強硬に聞こえたのであれば、自分の表現がまずかったのだろう。そのように語る柳田氏の応答は、至極もっともだったと思う。
 会場から寄せられたその批判は、一般的な意味で受け取るなら、よく理解できる発言であった。市民運動に対して、「もっと柔軟になれないのか?」という要望が出されることは稀でないし、「なぜこの人たちは、自分の正しさを信じて譲らないのだろう」、という苛立たしさを覚える人も少なくない。テクノロジー・アセスメントに時間を割く行政側の人々は、市民運動家に対して「また水掛け論か・・」、という徒労感を覚えるかもしれない。仮に、相手が市民運動家ではなくSTS的な研究領域に関わる人々であれば、科学技術をめぐる問題の是非について、第三者的な観点から合理的な妥協案を見出すことに長けているだろう。それに対し市民運動を草の根的に推進してきた人々は、第三者的、合理的なアセスメントによって割り切ること自体に、反感を見せることさえある。
 市民運動家はしばしば、相手方が「合理的」な説明をしても簡単には譲らないゆえに、「話(論理)が通じない人たち」とか、「合理的ではない」、「感情的だ」などと評される。しかし市民運動家の側にしてみれば、相手方(たとえば行政や企業)が用意した土俵で議論しなければならないことに、そもそもの不合理を覚えるだろう。さらに市民運動が、たとえば合理的な「効率計算」とは違う意図から生じ、一種の信条や確信に基づいている場合に、「それは個々人の好き嫌いの問題だから」といって切り捨てて良いのか、という問題もある。もちろん、「市民運動家」と言っても多様であって、今回シンポジウムに招かれた「市民運動家」は、上述したような「不合理さのレッテル」を貼られるべくもない人々だと確言できるだろう。ただ、彼らは今回語ったことは「市民運動家」としての抱負や展望であったから、聞き手によっては「一方的で、最初から結論が決まっている」という印象を受けたのかもしれない。アカデミックな観点から物事を見る人と、実践的に運動に関わっている人との間には、しばしば「温度差」があるのかもしれない。
 パネリストの一人である河田氏は、繰り返し次のように発言されていた。「今、科学の社会的影響や環境問題について研究している人たちは、本当に恵まれていると思います。」これは本当に、その通りであろう。遺伝子組換えや原子力エネルギーをめぐる社会的影響、環境問題一般等に取り組む研究者はいまや、大きくその必要性を認められている。しかしかつては、そのような問題に関心を向けることで「研究者」としての評価が上がるということは皆無に近かったはずである。そして、かかる状況のもとで、原子力発電や遺伝子組換えをめぐる問題に取り組んできた人の言葉にはやはり、実感に基づく言葉に特有の、強い説得力をおぼえる。私にとって今回のシンポジウムは、「体得」した知識の素直な説得力を直に聴くことができ、市民運動とアカデミズムとの連携を自分なりにイメージできたという意味で、非常に得難い機会であった。




堀内 葵(神戸大学)  今回のシンポジウムのキーワードに「予防原則」が挙げられる。未知の領域に対して、今の科学では対応できないときに、危険を冒してまで実行しようとはしないことだ。この徹底により、問題のある化学物質が含まれている可能性のある薬品を排除したり、自分では食べるのに不安がある遺伝子組み替え食品を買わなかったりするなどの処置をとることが出来る。しかしそのような注意を払っていても、選択肢が限定されている、あるいはひとつしかないという状況であれば、事情は変わってくる。極端な例を挙げると、遺伝子組み替え食品しか市場に流通しなくなったときである。この場合、予防原則は成り立たなくなる。もちろん、そのために反対運動を起こす必要があるし、実際に立ち上がっている団体もある。
 私の見たところ、講演者の方々は、「日本の市民運動、社会運動はまだまだ弱い、小さい」という認識で一致している。それには様々な理由があると思うが、ひとつ挙げるとすると、団体間のコミュニケーションの欠如である。例えば、香川県豊島の産業廃棄物処理に関する香川県、直島町、企業(三菱マテリアル)の政策に反対する市民団体は高松市に2つ、近隣の岡山県玉野市に2つあるが、これらは今のところ協力体制にあるとは言えない。(もっとも団体によって反対の程度は異なるし、目的も不明瞭である。)また、科学の専門家との意見交換が持たれているか、ということも疑問である。
 市民運動がどこまで大きくなるのか、という皮肉の発言も出た今回のシンポジウムだが、市民運動が小さい規模であるのならば、それなりの計画を持って活動していく必要があるのではないか。科学政策が政府や一部の専門家の「押しつけ」にならないためにも。






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