夏の学校要旨




夏の学校発表要旨

発表要旨「入門編」(事務局)

 まず、浅見さんによる「90年代のカリキュラム再編」では、90年代のカリキュラム再編の流れに今回の教育改革を位置づけ、技術倫理教育に対する意見が述べられている。90年代のカリキュラム再編には、大学の大衆化、大学設置基準大綱化・教養部の解体、大学院重点化の背景があり、少人数教育、実学指向、動機づけ教育の3つの特徴を挙げた。これらの特徴は倫理教育を考える上で大きなポイントとなるではないかと述べた。また、90年代半ば以降、日経連の『新時代の日本的経営』で示された3つの労働パターンを受けて、大学/大学院が研究者養成から職業教育の場にシフトしていること、また学生=消費者という受益者負担の論理がまかり通るようになったことを踏まえ、「専門職業人養成」と技術倫理の関連性について触れた。最後に、東京工業大学で実際に行われている技術倫理教育の例を紹介し、動機付け教育で倫理教育が行われることの矛盾、理工系の大学教員が倫理教育を行うことができるかという不信感を出して発表を締めくくった。  続いて三村さんより、浅見さんの発表にあった「専門職業人養成」について、日経連の『新時代の日本的経営』後の具体的な動きの一例として中央教育審議会大学院部会の提言「大学院における高度専門職業人養成について」(2002年4月18日)の内容が紹介された。(※提言は、http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/cyukyo4/index.htm)
 「入門編」の最後は、野澤さんによる「技術者倫理とは何か−日本における導入を中心に−」の発表となった。この発表は土屋陽吉さん(東京工業大学大学院卒)の修士論文『日本における技術者倫理の導入』を本人の了解のもとまとめたものである。技術倫理が科学技術者の社会的責任の問い直しと科学技術者資格の国際化を背景に登場してきた技術者倫理だが、その概念を理解するにはそれを具体化する制度を知ることが必要ということで、日本への諸制度(技術者倫理、技術者資格、技術者教育)の導入過程についてJABEEの設立経緯を中心に紹介した。またアメリカの技術者の制度化と技術者倫理の変遷や日米の制度の比較についても紹介している。日米の比較で特に重要なことは、アメリカでは技術者が専門職(Professional Engineer)として認識されており職能団体も多く存在するが、日本では技術者=専門職という認識が弱いことである。アメリカでの技術者倫理がそのまま日本で対応できるのかという疑問がある。

(文責:重松)

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東京工業大学における戦後大学改革

岡田大士(東京工業大学大学院)

東京工業大学における終戦直後の大学改革

 東工大の戦後改革は、議論を始めたのが終戦直後の1945年9月であり、改革案の「東京工業大学刷新要綱」が発表されるのが翌1946年2月1日と、議論の着手・進捗が非常に速い。そしてこの改革案を受けて、1946年度からは学科別に学生を入学させることを撤廃し、さらに物理・数学・化学の基礎的科目や、化学工業、電気工業、機械工業、建築の各工学分野の入門的科目全てを受講する「共通授業」と、化学史、文化史、心理学、社会思想論などの人文社会系科目を組み込んだカリキュラムを新たに導入した。特にカリキュラムについては、人文系科目を最終学年にも配置し、徐々に教養を身につけていくという「くさび形カリキュラム」という制度が採用された。そこで、日本における一般教育の先駆けともいわれる東工大カリキュラムに関わる議論と、改革議論の担い手となった教官集団の経歴や言論活動からわかる性格、そして現在の東工大のカリキュラムに与えている影響について、文献調査や関係者へのインタビューを元に明らかにした。

東京工業大学刷新委員会と和田小六

 この改革案を立案したのは、和田学長を委員長とし、学内の中堅的教授と、若手助教授によって構成された「東京工業大学刷新委員会」と呼ばれる集団であった。1944年12月に学長として着任した和田小六は、東京帝国大学航空研究所所長、技術院次長を務め、当時の科学技術の最先端である航空機の開発・生産に強く関わっていた。「航研機」の世界記録樹立に象徴されるように、航空研では高い研究運営能力を発揮した和田であったが、技術院では省庁間のセクショナリズムに翻弄され、結果として目立った実績を挙げることなくに終戦を迎えた。このような経験からと推測されるが、和田小六は研究活動に自由な雰囲気を与え、また大学教育には自由でアカデミックな雰囲気を作ることが重要であると考えた。それは、「当時の東工大にはそういう雰囲気がなかったので、(和田小六が)『学問の府』」としての雰囲気を作ろうとしたのではと、息子の和田昭允氏がインタビューで発言したことからも推測される。刷新委員会を構成したのは、帝国大学の出身であり、出身校を離れ自由な研究活動を志向した教授達と、当時の科学行政や工学教育に批判的な意見を持つ若手助教授達であった。彼らは戦中戦後を通じて、新聞や雑誌に積極的に自分の意見を発表していた。また戦時中の東工大には学内教官が集まって、大本営発表ではない実際の戦争の様子を把握するための交流会が存在した。刷新委員会を構成した教官もこの研究会に参加し、和田小六も学長着任後、この研究会に参加していたようである。MITの教育内容も戦時中からすでに検討されており、議事録メモからは、MITのカタログ(大学案内)の一部を手書きしたと思われるメモが発見されている。このメモには「カリキュラムに柔軟性」をもたせ、「通常カリキュラムの中に人文科学科目」を取り込み、「事情に合わせてコースを変えることが可能」で「学生がスタッフの指導や助言を受けながら、自身の進路を計画することができる」MITのカリキュラムの特徴が記されている。東工大の刷新要綱では、「学生は入学当初は共通的に工学の基礎たる科目を学習しつつ専門分野に対する概念を得、自己の志望と能力とに応じ自主的判断に基づいて専門課程を選択しうる如くし、次で夫々の専門技術の基礎たる科目について徹底的訓練を受け、最後に教授の研究に参加すること」が改革内容としてあげられており、MITのカリキュラムが東工大の戦後カリキュラムに与えた影響は非常に強かったと思われる。

東工大の戦後改革とカリキュラム

 東工大の戦後改革を経て作られたカリキュラムは、「くさび形カリキュラム」と呼ばれるように、低学年時には学生全員が共通科目を受講し、徐々に専門科目が増えていることと、高学年においても人文系科目を配していることが特徴である。共通科目と専門科目の関係については、学部教育を専門に向けるか、それとも基礎的に向けるかが問題になったものと思われる。当時東工大に入学する学生のほとんどは、高等工業および工業専門学校出身者であった。当時の教官によると、大学教育で基礎になる部分は弱く、一方で自身の専門への要求が高く、教育に苦労したという。また、当時の和田学長は、大学院教育を行うことを念頭に入れていて、専門教育は大学院で行い、学部教育はあくまでも基礎重視で行くことを主張している。人文系科目については、和田小六の「技術者が育っていく段階でいつも教養が伴わなければならず、大学教育を教養と専門に分けるものではない」という考え(息子和田昭允氏の回想)が影響しているものと思われる。また、東工大は新制大学昇格時に旧制高校を包摂しなかったので、旧制高校を包摂する制度としての教養部を作る必要がなかったこと。また宮城音弥の自伝や、哲学を担当した鶴見俊輔へのインタビューでの発言にもあるように、教養担当教官と専門担当教官を待遇面で区別せず、専門教育と区別することなく教養教育を実施しやすい環境を積極的に作ったこと。古在由重や宮城音弥、園部三郎などの講師人選に見られるように「思想の科学」など、終戦直後の在野の言論集団にまで広く人材を求めたこと。これらが影響しているだろう。このように戦時中の科学技術や工学教育のあり方に不満を持っていた教官達と、同じく技術院での不振を痛感した和田の思惑が一致したことが「刷新委員会」を結成して「刷新要綱」を立案し、学科を廃止し、「大学らしく」人文系科目も含めた新カリキュラムを実現したと考えて良いだろう。

発表を終えて

 今回STS夏の学校のテーマは「理工系大学教育の現在」ということで、現在の大学改革、特に最近理工系大学を中心に行われている技術者倫理教育を中心に議論が行われた。私が終戦直後の東工大の大学改革について発表した翌日に、調麻佐志さんから「現在の」東工大の大学改革についてお話があり、その困難さを語っておられた。その話を聞いていた私は、ではなぜ終戦直後の東工大で学科を外したり、工学系専門科目ばかりだったカリキュラムに共通科目や人文系科目を取り入れることができたのか、その原因についてもう一度考えてみたくなった。確かに規模は違うし、当時の教官の全員が全員本当に改革に賛成したとは言い切れないだろう。それでも改革を進めようとした和田小六や刷新委員会に携わった教授助教授を後押ししたものは何だったのだろうか。ひとつキーワードとしてあげられるのは「戦後民主化」と呼ばれるものではないか。講師人選を見るかぎり、当時左翼と呼ばれた人物もいたし、「思想の科学」のような在野の言論集団に関わっている人物もいた。また、改革を支えたのはベテラン教授達よりも若手の助教授達であった。若手の助教授たちが、戦後日本を真剣に展望し、終戦直後の自由で開放的な雰囲気のなかで言いたいことを言えるようになったこと、これが和田改革を支えたのではないだろうか。今回夏の学校に参加したのは、テーマの都合上現場の大学教員の方が多かったが、STSNJに参加している大学院生をはじめとした若手研究者は、現在の大学の問題をどう考えているのだろうか。

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工学倫理教育の試み

蔵田伸雄(北海道大学大学院文学研究科倫理学講座)

 今年度の2002年4月から7月にかけて「全学教育」、つまりいわゆる「一般教養」にあたるコースで「工学倫理入門」というクラスを開講した。ちなみに受講者(登録者)は130人ほどで、ほぼ全員が工学部の学生であった。なお、このクラスはJABEE対応のクラスではなく、自由選択科目であった。講義の内容は私が自由に選択できる科目で、「応用倫理学入門」、あるいは「西洋思想における生と死」といった科目を開講してもよかったのだが、いわば自分の「趣味」で「工学倫理入門」という科目を開講した。
 私が「技術倫理」に首をつっこむことになったきっかけは、1999年秋の「中部哲学会」大会のシンポジウム「技術と人間」でパネルを依頼され、「科学技術の社会的影響と我々の責任―科学技術倫理試論」という発表を行ったことだった。この時の他のパネルは関西大学の斉藤了文氏と他一名である。このシンポジウムをきっかけにして、中部圏の科学哲学者・工学者・分析哲学者で「工学倫理」をテーマにした、科研費による研究班が組織され、私もそこに加わることになった。そこで勉強するには講義をするのが一番ということで、今年度「工学倫理」という科目を開講したのである。
 なお私は昨年秋に北大に赴任したが、私の所属する北大文学部倫理学講座ではJABEE導入をにらんで、「科学技術倫理教育システムの構築」の研究を進めている。2002年3月には倫理学講座を中心としたメンバーが主催し、STS学会の協賛による公開シンポジウム「テクノエシックスの現在」も開催された (この時の報告書を希望される方は、北大の蔵田宛に連絡されたい)。現在は「科学技術振興調整費・政策提言」という予算で研究を進めている。
 さて「工学倫理入門」と題された私の授業の内容について、簡単に紹介しておこう。テキストは斉藤了文・坂下浩司編『はじめての工学倫理』(昭和堂)である。授業は講義を一時間程度行い、授業で扱ったケースに関連するビデオを見せる、という形態をとった。各回のテーマは以下の通りである。1「倫理学と責任概念」、2「技術者の義務」、3「自動車に関する問題」、4「フォード社のピント・ケース」。工学倫理におけるパラダイム・ケースとされることの多いチャレンジャー号爆発事故については、三回分の講義時間を用いて説明した。5「チャレンジャー号事故1:背景と人物説明、及び受け入れ可能なリスク」、6「チャレンジャー号事故2:打ち上げに至る経緯、及びビジネスと安全性」、7「チャレンジャー号事故3:NASAの主張と打ち上げ後」。また同様に言及されることの多い「ルメジャーとシティ・コープタワー」のケースについても、二回を費やした。8「シティ・コープタワー1:シティ・コープタワーの特徴」、9「シティ・コープタワー2:技術者の責任モデル、ルメジャーとボワジョリィの比較」。さらに10回目は工学倫理に関する基本的カテゴリーの一つである「内部告発(whistle-blowing)の条件」について説明し、最後の回には「日航ジャンボ機墜落と雪印集団食中毒事件」について簡単に紹介した(出張による休講が二回)。そして12回目の時間にテストを行った。成績評価は主に、6回目授業終了時に課したレポートと、テストによって行った。
 受講生の態度・反応はおおむね良好であったが、人数的な問題もあって、やや一方的な内容になり、学生からの反応もつかみにくかった。またこれは工学倫理教育について一般に指摘されていることであるが、日本でのケースをあまり扱えなかったことも反省点の一つである。
 講義は学生の理解しやすさを考慮して、ケース分析を中心に行った。あまり多くのケースは扱わずに、少数のケースについて丁寧に説明した方が教育効果は高いようである。なお、技術の社会全体の中での位置づけ、チャレンジャー号事故の政治的・軍事的背景などは簡単に説明したが、講義全体の流れを重視すると、STS的な分析はあまりできなかった。
 ウィットベックらに代表される、工学倫理(engineering ethics)のアプローチはnarrative theoryに基づき、virtue ethics的傾向が強く、またagent-centeredの立場である(つまり行為者の情報の制約に注目して、「神の視点」をとらない)。 工学倫理とは、限られた資金、時間、マンパワー、情報しかない状況で、安全、効率性、企業の利益、エンジニア自身の利益といった諸価値のバランスをとりつつ、問題の解決をめざすという倫理である。あまり政策論的、立法的議論にはならないという傾向があり(今回の私の講義にもこの傾向があった)、システムの問題よりも、個人の責任に力点をおいているので、「技術者」倫理と訳した方が適当かもしれない。
 工学倫理と「企業倫理」との境界はあいまいであるが、工学倫理には工学者の職業倫理(Professional ethics)という側面もある。しかしengineering ethicsを「技術「者」倫理」として理解することは、問題を技術者個人の資質に還元することになりかねない。実際「工学倫理」に対しては「英雄物語的」である、技術の社会的性格に関する分析の意識が希薄であるといった、STS的批判もある。このような理由で、「工学倫理」と「STS」とを同じクラスで教えることはむずかしいように思われた。
 私個人としても、「技術「者」倫理」だけでは不十分だと考えている。技術者個人の倫理とシステムとの二方面から種々の倫理問題について考えたいと思っているのだが、教育効果を考えると技術「者」倫理に偏ってしまいがちになってしまう。何とかバランスのとれた教育を行う方策を考えたいと思っている。

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多様な理工系人材育成プログラムの可能性

小川正賢(神戸大学発達科学部)

 本発表では、科学技術基本法、科学技術基本計画という国策に沿って、さまざまな科学技術振興政策が推進されていく中で、ともすれば忘れられがちな陥穽についての問題提起を行った。まず、「STSでは工学教育、工学倫理といった工学教育に焦点が当てられるが、どうして理学教育のほうは問題にされないのか?」「STSでは、理工学教育が、国策・人材育成という社会の側にたった観点から議論されるが、どうして、個々の理工系学生という個人の側にたった観点から議論がされないのか?(誰のための理工系教育なのか?)」「高等教育における理学教育は後継者養成教育だけでいいのか?」「理工系教育のシステムや教育方法に問題はないのか?」といった素朴な疑問を提起した。次に、これらの問題を考える基礎統計として、「理工系(理・工・農)学部の年間卒業者数は、13.8万人、理工系修士課程修了者数は、3.2万人、理工系博士課程修了者は、5300人(内学位取得者4300人)」(文部省学校基本調査、1999)という日本の現状を紹介し、理工系に親和的な学生たちのわずか4%しか、科学者・エンジニアとしての後継者になっていないにもかかわらず、理工系教育プログラムは、学部教育から大学院教育まで、後継者としての資質を持つ彼らを選び出していくための単一システムとしてしか機能してきていないことを問題にした。現在の科学技術政策の中で、重点的に資金を投下しているのは、まさにこの4%の理工系学生に対してであり、残り95%については、問題にさえされていない。しかも、その資金投下は、研究開発形態の変化(個人型研究からプロジェクト型研究への変化とそれに伴う研究開発チーム内での研究者の役割分化、さらにそれらの役割に特化した資質開発の必要性といった変化)にはほとんど無関係に実施され、すべての理工系人材が、従来どおり、優秀な個人研究型研究者になることのみを支援しているように見える。
 検討されるべきは、研究開発システムの現状を解析したうえで、多様な研究開発人材を同定し、それらの各種人材を意識的に育成する教育プログラムを開発することであり、また、科学技術と社会の間に必要となる科学技術情報のブローカーを育成する教育プログラムや、科学技術社会に出現してきている理工系に基盤をおいた新職種に対応した人材育成プログラムを開発することである。残り95%の理工系に親和的な学生たちが、理工系を学んできたことに自信と誇りを持って、社会のさまざまなセクターで、それぞれの人生を生き生きと生きていけるような包括的な理工系教育プログラムを構想・提案することが必要なのではないかと主張した。また、そのような方向を示唆する事例として、アメリカのスローン財団が主導してきているサイエンス・マスター・プログラムや国内の大学に見られる新しい教育プログラム例に言及した。

参考文献

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企業における技術者教育と倫理

三宅苞(社会技術研究フォーラム〔川崎製鉄〕)

企業において技術者倫理をどう取り入れるか、工学教育改革で何を扱ってほしいかの二点から考える。

  1. 企業における技術者教育

    1−1:集合教育

    企業(ここでは、いわゆる大企業を意味し、昨今注目のヴェンチャー企業ではない)で普通、教育と呼ばれるのは、集合的な研修教育を示す。一定期間、特定の社員を対象にする教育である。そういうことを職務にする「教育担当係」があり、筆者も、企業(川崎製鉄)で、十年ほど前、数年間その任に当たった。その時、電気、機械などの他社の教育制度を調べたが、どこもほぼ同じであった。最近、内容が変わった(少なくとも盛んになった)とは思えない。というのは、昨今の企業再構築で、この分野の担当者は減る一方であるはずだから。集合教育は以下の二つに分けられる。

    1)立場からの教育(新入社員教育、課長研修、部長研修など)

     特定の立場になった社員を集めての教育で、一種の通過儀礼である。重役や著名な先生の講演、談話や、共通課題のグループ検討と発表など。課長研修あたりで、技術者倫理が取り入れられると面白いが。

    2)課題からの教育(安全教育、特許教育、英会話、技術講座など)

     安全、特許は、どこでも行う、必須の教育である。英会話、各種技術講座などは、自己研修と言う名の、半強制的、半自発的教育である。

    1−2:OJT(On the Job Training)による教育

     しかし、実質的な教育は、日々の業務を通じてなされる。つまり、仕事を進めていく上で必要なさまざまな知識、規範を、教えることである。特に新入社員は、これらを周りから教わって、一人前の技術者になる。要は、「分からないことは先輩に聞け。勝手に自分で判断するな」ということである。「倫理」の前提に、自分でモノを考えるということがあるなら、残念ながら、倫理はOJTにはお呼びではない。

  2. 技術者倫理の周辺

     技術者倫理は、確かに今の日本の技術者に不足しているであろう。しかし、何か別の倫理は身につけていないか、技術者倫理に変わるものはないか、など、様々な方面から、技術者倫理の欠如を観察する必要があろう。

    (1)職業倫理:欠陥品を出さない、遅刻をしない、納期は守る、でたらめな論文は書かないなどをもし職業倫理と呼ぶなら、そういう点では結構、いい線を行っているのではないか(これは、自己弁護のためでなく、公平な評価のためである)。

    (2)規則、規則、規則:安全は技術者倫理で取り上げることが多いが、製造業ではむしろ、規則の制定と遵守で安全を確保しようとする(その厳しさ、うるさささ、煩瑣さは、部外者の想像を絶する)。各人の倫理的判断に任せるよりも、規則を制定し、守らせる方が、管理者側としてはやりやすいのである。

    (3)お客様の倫理:技術者も含め、生産者は、お客様に自社の製品を買っていただこうと日夜必死である。技術者が倫理的問題まで考える余裕がない、その原因の一つは、お客様、つまり我々にもあるのではなかろうか。

  3. 工学教育改革に望みたいこと

     私が工学教育改革に注目するのは、いわゆる文系の視点が、やっと、工学カリキュラムに入ろうとしているからだ。今の日本の技術者を見れば、送り出す側として、これまでのように、工学知識と実験手法の伝授だけでは、十分ではない。技術者の抱える最大の点は、私の見るところ、技術者の年齢は、大体35歳までであるという点である。それ以上になると、気力、体力の面で、とても第一線の技術者としてはやれなくなる。後は、企画部とか情報管理部とかで、技術者のサポートに回るか、どこかに出向である。定年65歳とすれば30年間である。社会的にもったいないとも、個人的には淋しいなあとも思う。そういった技術者のキャリア・パスを調べ、「君たちはどう生きるか」を考え、あるいは、多様な生き方が可能な社会的制度を、考える授業は、いかがであろうか。

  4. 夏の学校を終えて

     今回の学校で、技術者倫理と工学教育改革、JABBEE対応、95%の工学部生(問題にされてないこと)、東大工学部の改革(で必ずしも技術者倫理は高位ではないこと)、などさまざまな視点からの報告があり、非常に有益であった。これらを参考に、企業における技術者倫理について、これからも考えていきたい。

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医学教育改革の現在

川崎勝(山口大学医学部医学教育センター)

 今年の夏の学校の統一テーマは「理工系大学教育の現在」であったが、「医学教育」─ここではとりあえず「卒前教育」に限定する─が「理工系大学教育」のカテゴリーに含まれるのか、と考えると微妙なところがあるだろう。強固に存在する理系/文系の区分に従えば、医学部も理系に分類されていることは事実であるが、理系諸学部の中でも特殊な存在と位置づけられているのが実態であるように感じられる。
 実際、修学年限ひとつ取ってみても、他の理学部・工学部・農学部等々(それどころか、獣医学部(学科)をのぞくすべての学部学科)と比較して「特殊」であることは事実である。この特殊性は、医学部が日本における医師の養成を「独占」するとともに社会に対して優れた医師を供給する社会的責任を負い、そのため必然的に医学部が専門職業訓練学校としての色彩を強く帯びていることによっている。医学部が社会的使命を果たすために特殊性を帯びることそれ自体は決して非難されるべき事柄ではないだろう。
 しかし、他方で、例えば工学教育のJABEE(日本技術者教育認定機構)による専門認定制度の導入などの教育改革の話題は、外部にも伝わってくるのに対し、医学教育の分野で現在急激に進行中の諸々の改革の話はなかなか外部に伝わっていない。これは、かなり奇妙な事態であるように思われる。一般論として、国民の医学医療に対する関心はかなり高いし、それに対応して様々なメディアで多様な報道がなされている。そして、そうした報道の主潮流からは、つまるところ「医療で最も重要なのは人である」というメッセージが伝わってくる(多くの場合は、その点に関して「国民の期待に応えていない」という批判的な形で)。だとしたら、医療人養成の過程、すなわち医学教育の内実に対して、もっと注目が集まり、具体的かつ直接的な注文や意見が寄せられてしかるべきだと思えるのだが、なぜか医学教育に対しては、あまり関心が集まっているとは言い難い。
 このような問題意識をもって、「夏の学校」に臨んだ。しかし、医学教育に対する関心の現状を踏まえたとき、時間が極度に限られていたこともあり、本報告はあくまでも「紹介」のレベルに留まらざるを得なかった。
 具体的には、まず、改革の背景として、海外(特に英語圏を中心として)の医学教育がここ20年あまりでどのような変貌を遂げたのかを医療の性質の変化とからめて簡単に解説した。
 ついで、ここ数年で一気に具体化した全国的動きとしての、「モデル・コア・カリキュラム」の策定、それを受けての「共用試験」の実施、さらに臨床実習を旧来の「見学型」から診療チームの一員として活動する「診療参加型」(クリニカル・クラークシップ)への質的転換について述べた(「卒後教育」に射程をのばせば、さらに厚労省がイニシアティブを取る「臨床研修義務化」がもたらす変化も触れなければならないが、これは時間の関係で割愛した)。
 最後に、そうした海外ならびに全国の急激な改革の動きを受けて、一地方大学の医学部がどのような対応をしているのかを紹介した。紹介内容のメインは、「山口大学医学部電子シラバス」(http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~med_syllabus/index.html)(「山口大学トップ」→「医学部・附属病院トップ」から順にリンクをたどれます)に詳細に掲載してあるのでそちらを参照していただければ幸いである。日本で「シラバス」と言うと逆に誤解を招きやすいが、同サイトは、授業内容の詳細(図表やpdf、あるいはPowerPointのファイルを含む)に至るまで、すべての医学教育の内容を電子化しており、一番深い階層を除いてすべて一般公開してある。また、同サイトのトップページの「資料」欄からは、上述の全国的な改革の動きの一次資料を収めたり、海外の主要な医学教育関連サイトにも直接リンクを張ってあるページに飛べるので、是非ご覧いただければ、と思う。
 おそらく、今後、医学教育に対して社会へのアカウンタビリティを求める動きは急速に進展していくものと思われる。その責任を果たせるようにすることは、重要なSTS的活動であると個人的に考えている。

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工学部の学生は何を学ぶ(べき)か? STSの視点から、工学院大学の事例とともに

林真理(工学院大学)

 今回の報告では、工学院大学における教育実践の事例を報告し、それに基づいて工科系大学生の教育に関する考察を行った。特にJABEE認定に関係するの問題を取り上げた(当日は時間がなさそうだったのでかなり端折った部分がある。一部追加した。)
 まず全般的な状況について。工学院大学(http://www.kogakuin.ac.jp/)はJABEE認定初年度である2001年度に「国際工学プログラム」(http://www.kogakuin.ac.jp/gakka/1a3/jabee0.html)が認定を受けた。他の多くの学科もそれぞれコースを準備中である。したがって大学第I部ほぼ全体としてJABEE対応を念頭に置いた教育改革が進行中である。
 もちろん教育改革それ自体は、JABEE対応が問題になる前から行われてきており、それが現在も継続している。そういった現在に内容を、カリキュラム編成(教育内容)、方法改善、説明責任の明確化の3点に分けて説明する。

(1)カリキュラム編成(教育内容)

 JABEE認定によって、工学部のカリキュラムは次の4つの制限条件に縛られることになる。その4つとは、文科省、技術者教育認定に関する国際協定であるWashington Accord(http://www.washingtonaccord.org/)、学科と関連する学協会、大学の理念目標である。これまでは、文科省の決めた枠の中で学科の独自性を発揮するプログラムを自由に組むことができた。現在でも「大学設置基準」的にはそれで十分である。それに対して、JABEE認定により、上記の4つのうち第2および第3の制限条件が新たに加わった。第2の条件は、JABEEが技術者教育に関する国際的な協定に加わることを狙っていることから来ており、日本の大学の工学部教育プログラムも他の協定参加国と同等の教育水準を要求されるということである。また第3の条件は、JABEE認定が何らかの特定の分野(とそれに対する学協会)を指定して行われるため、教育プログラムがいずれかの既成の学問領域の標準に適合する必要が出てくるというものである。
 このようにJABEE認定により教育カリキュラム編成への新たな要請がある一方、厳しい経営環境下に置かれた多くの私立大学は、その他にも様々な要求にさらされている。
 一つは補習教育の導入である。これは特に自然科学分野で大きい。高等学校における数学・理科教育が手薄になってきたため、これまでと同じレベルから数学、物理、化学の教育を開始できず、したがって大学での補習教育によって補おうというものである。
 また、導入教育とりわけ職業意識教育の必要性が指摘されている。これは、工学部入学生が「将来技術者になる」という自覚を必ずしも持ち合わせておらず、何となく進学してくる場合があり、学習に身が入らない、就職意欲が湧かないという問題から来ている。学習意欲を高めるために、ライフコース(といっても基本的には企業内技術者に限定される)に関する認識が求められている。
 さらに、いわゆる「教養科目」の見直しが考えられている。大学設置基準の大綱化以降、3、4年生にも教養科目、1、2年生にも専門科目という、いわゆる「楔型カリキュラム」がほとんどの大学で行われてきた。それに対して、専門教育をさらに早めて、その代わりに社会に出る直前に広い視野を見につけるような教養としての人文・社会科学的教育が必要ではないかという見方も出てきている。また「専門科目」の範疇に、これまでなら「教養」の枠内に入られていたような科目が進出している。「技術者倫理」教育も、こういった「専門的教養科目」(?)の流れの中に位置付けうる。
 最後に最も重要なことは、それぞれの学科が他の大学にはない「特色ある教育」を行うことである。特色ある学科の目標と、それにかなった特色ある教育カリキュラムが、学生の就職先となる企業および受験生へのアピールという形で探求されている。工学院大学の場合(そしておそらく多くの工学部ではそうであると思われるが)は、企業で活躍できる技術者を育てているということを企業にアピールし、また就職に強い大学ということで受験生にアピールするのである。

(2)教育方法の改善

 とりわけ卒業に必要な単位数が124単位に軽減されてから、単位修得の実質化が主張されるようになってきている。具体的には、大人数講義の廃止、評価方法を見直し(一度きりの試験やレポートで成績評価をすべきではない、出席のみで点数をつける講義は論外、等)、講義時間の見直し(やむをえず休講する場合は補講をしてきちんと15週間の授業を確保する)等の形をとる。また、授業の質的改善を目的として、学生による授業評価アンケート、教員による相互授業参観なども行われるようになっている。このような動きは教育改善=FD(faculty development)と呼ばれ、現在では多くの大学で行われている。
 それに対して、JABEE対応の過程で求められるようになってきたのは、単一の成績評価基準で絶対評価を行うことである。これはJABEEが「技術者の品質保証」を求めるものであることから来ている。技術者として必要な能力はあらかじめ決まっており、したがって教育上の達成目標は絶対的なものとなるという理屈である。また、「品質保証」においては最低限の水準をクリアしているか否かが重要になるため、合格か不合格かというラインが重要とされ、合格ラインを超えてどれほど進んでもそれはJABEE的な教育目標の達成の観点からは重要ではないということになる。個に応じた「一品生産」であるはずの教育から、最低基準のクリアこそが重要な「大量生産」型の教育へと向かう傾向が出てきかねない。

(3)教育における説明責任の明確化

 説明責任には3種類のものがある。一つは、学生に対する説明責任である。シラバスは、授業目標、毎回の授業内容、単位取得条件(評価方法)をあらかじめ明確にする等、具体的に書くことが求められている。(登録単位毎に登録量を支払うといった単位従量制授業料も検討されており、その場合にはシラバス記載事項の不履行は学生からの返金要求にもつながりうる。)成績評価後に、(多くの場合不合格になった学生が)なぜこの成績であるのかを尋ねてくるのは普通のことであり、実際に赤を入れたレポートや答案を示しながら採点基準を明らかにしてこれに解答することが求められる。
 2つめの説明責任は、社会に対するものである。そのため、委員会を形成して自己評価を継続的に実施すること、大学基準協会による外部評価を受けることなどが行われている。JABEE審査も、大学教育プログラムを外部団体に評価させるという意味では、こういった社会に対する説明責任を果たすというやり方の一つであると言ってよいであろう。今後は、ウェブを活用して大学の理念目標や教育システム、研究内容を公開することが重要であるとされるであろう。
 3つめの説明責任は、JABEEに対するものである。プログラムの宣言する教育内容が実際に実施されているかどうかを確認するために、シラバスが調べられ、学生の試験答案やレポートの現物が検査され、さらに受講生に対するインタビューが行われることになる。単なる形式ではなく実際に認定に足るような授業が行われていることを、物的、人的証拠に基づいて示さなければならないのである。

 こういった現状を鑑みるとき、次のような問題点を指摘することができるだろう。

(1)JABEE認定の獲得を絶対条件とするため、無難かつ窮屈(あるいは非常にハードな)カリキュラムになって、大学および学科の独自性を発揮できないのではないか。
(2)必然的に科目の必修化が起こるが、これは科目選択の可能性を狭めて、教育の柔軟性がなくなるのではないか。
(3)絶対評価の浸透によって個人個人の特性や能力に応じた教育ができなくなる、あるいはできるとしてもその意味が軽んじられるようになるのではないか。
(4)高等学校教員や受験生への大学側からのアピールが不足している現状がある。また、「技術者」というライフコースの存在も広く理解させていない。そのため、結果として学習目的が必ずしも明確でない学生たちに、有無を言わさず学習目標を上から与えることになるのではないか。
(5)授業内容および成績評価の証拠保持のため、膨大な資料を収集、整理、管理する労力およびコストがかかることが問題になる。また、そういった労力やコストに対する理解もなかなか得られない。
(6)そもそも、工科系大学教育の目的は、産業界からの「即戦力」要請、学会からの品質保証要請に応えることでよいのだろうか。学生自身の希望や満足度はどうなるのか?
(7)大学卒業とプログラム修了はどのような関係に置かれるのか? 大学教育にはもっと別の目的もあるはずであり、それが技術者養成という目的とどのように調和するのか。
(8)JABEE対応に伴う工科系大学の教育改革は、大綱化以降のいわゆる大学改革の流れと合致している部分を多く持っている(例えば、大学間競争の活性化、大学ごとの固有の教育プログラムの確立、教養と専門の融合の必要性、社会に求められる人材の供給源としての大学)部分もあり、比較的受け入れられやすい。しかし、そもそも大綱化に対する反省の時期が来ているのではないのだろうか?
(9)こういった問題点がありながらも、JABEEは工科系大学の差別化をもたらす可能性があるため、他の大学がやることは横並びでやらざるを得ない私立工科大学は、必ずJABEE認定を受けることになるであろう。したがって、実際には上のような問題をどのように解消していくのかが問題となる。また例えば「技術者倫理」などの科目をより良い形で構築するにはどうすべきかが問題となる。

 また、STSの視点からは、次のようなことを考えても良いだろう。

(A)工科系大学の教育は、本当に「技術者の孵卵器」が目標で良いのだろうか。実質的には4年制の技術者教育はできなくなっているのではないか? 実際、技術職に就く卒業生の割合が減ってきており、また「技術者」のあり方が多様化しているのではないか。
(B)教養的な理工学教育の場があっても良いのではないのだろうか? 大学4年間をリベラルアーツとして位置付ける考え方はできないだろうか?
(C)技術の変容が激しい中、技術者の再教育制度の意味は大きいに違いない。「20歳前後大学→その後企業」というライフコース以外に、もっと別のライフコースを考えて、そこに対応することこそ今後の理工系大学の役割ではないだろうか。

後記:
 技術倫理教育について現場の視点が欠如するのではないかという「問題点」の指摘(柿原さん)、大学教育がアカデミックな専門家の再生産以外は行われていないという指摘(小川さん)、JABEEは今後の工科系大学教育の「希望」であると肯定的に思われているという指摘(初日の報告者?)は、どれも私にとってたいへん意外なことだった。というのも、少なくとも工学院大学の場合、日常的には研究よりも教育が重視され、しかもその教育とは「企業内技術者」養成を目的とした教育以外の何ものでもない。たとえば「技術者の倫理」の科目担当者は大学研究者ではなく企業人であり、むしろ企業人としてのあり方を強調して行われている。大学全体のスタッフも、純粋アカデミズムのエンジニアリング・サイエンティストは少なく、企業に勤めた経験をもつ教員の数は多い。研究者を育てるための教育は、基本的には行われていない。中堅私立の一大学である工学院で行われていることは決して特別なことではなく、多くの普通の大学の工学部で行われていることであると想像できる。したがって、私が危惧していることは、先のような指摘とはまったく正反対であり、大学が単に企業の要請に応える予備校になりそうだという問題、大学からアカデミックな感覚や考え方が消滅しかねないという問題、である。

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専門家の社会学

加藤源太郎(神戸大学大学教育研究センター)

 専門家と非専門家の境界設定に関する問題は、今日のSTS研究において重要なテーマとなっている。「専門家」についての科学社会学的研究に先立って、専門家についての社会学における基本的な部分を振り返ることが本発表の主題であった。
 本発表における議論の対象は、プロフェッションの社会学、または職業社会学と言われる領域であったが、特に多くの研究が蓄積されている医療社会学を中心として、アメリカの社会学から3人の研究者を取り上げた。プロフェッションの社会学とは、その職業を可能にしている社会構造や制度の分析をする研究領域であり、一方では産業社会学や組織社会学につながる系譜を持っているが、今回は相互作用論アプローチによる医療社会学への系譜を重視した。また職業の概念については、M. WeberによるBerufの概念定義が不可欠であるが、宗教的な意味合いを持つこの概念についてはここでは扱わないことにした。
 まず、新興の職業がプロフェッションとしての高い地位と権威を獲得していったかについてのモノグラフであるE. Hughesの『制度体の成長―シカゴ不動産協会』を取り上げ、「具体的に定められた状況での正当な行為の明確な定義」など、すでにプロフェッション研究への主要な視点が提示されていることを指摘した。
 次いで、「病気と医師役割」に代表されるT. Parsonsの医療社会学的研究が、行為論としてのプロフェッション研究であることを確認した。また、合議的アソシエーションモデルとして、患者−医師関係を考察するParsonsの議論は、相互信頼を基盤としており、それゆえ医療専門職の信託責任を強調するものであるが、その根拠を専門職の自己規律に求めるという50年代アメリカ文化を象徴する視点であることを指摘した。
 最後に、福祉・教育などを含めたヒューマンサービスの信頼の危機が訪れた後の議論として、『医療と専門家支配』などで知られるE. Freidsonを取り上げ、ParsonsがWeber的官僚制から専門職の社会を分離しようとした試みに対して、医療活動を排他的に占有するなどの専門職の組織や制度が、ヒューマンサービスを受けるクライエントに疎外をもたらしている、という視点と、医療従事者が科学者と専門家の二側面を持っているために、それぞれ別個の考察が必要である、という視点を提示した。医療社会学の議論はI. IllichやFriedson以来の制度批判的な枠組みが優勢であると言われており、以降の議論に具体的にどのような影響を与えたかについての分析が必要であろうが、枠組みの紹介とどめた。
 この段階ですでにSTS研究に対しても有益ないくつかのポイントを、自らの今後の課題として提示し、まとめに替えた。例えば、専門家/非専門家の知識勾配の問題は、制度的・組織的な分析が不可欠であるし、単純にパブリックの決定権の問題に帰結することができない問題であることが見えてきた。また、専門家についての考察は、非専門家との相互作用に着目することも必要であろう。発表後には、多くの示唆的なコメントをいただいた。expert、professionなどの概念が集団に向けられているのか個人に向けられているのかという問題は、例えば技術者倫理などの職業倫理を考えるにあたって重要な問題を含んでいる。また、専門職業の魔術的・秘儀的性質についての分析や、制度的問題の一部として専門家になる過程の分析、医療専門職と他の専門職の異同にも焦点をあてるべきだと思われる。今後の研究における重点を再確認し、新たな研究につなげていきたい。






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