メディアの中の立花隆 ――「知の巨人」立花隆を考える――

神戸大学立花隆研究会 薗田 恵美
(研究会ホームページ http://www07.u-page.so-net.ne.jp/tb4/emikko/




以下は立花隆を批判した主な書籍・記事である。

  • 福田雅章「立花隆の研究」(『宝石』・1998年)
  • 新田均「イデオロギーに陥った立花隆」(『正論』1999年)
  • 佐藤進『立花隆の無知蒙昧を衝く』(社会評論社・2000年)
  • 斎藤美奈子「彼らの反動 明るい退廃時代の表象アイドル論 立花隆」(『世界』2001年)
  • 谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』(洋泉社・2001年)
  • 別冊宝島Real『立花隆「嘘八百」の研究』(宝島社・2002年)
  • (寄稿者:浅羽通明、菊池信輝、野田敬生、小浜逸郎、朝倉喬司、宮崎哲弥、佐藤進、粥川準二、斎藤環、天笠啓祐、塚原東吾、大月隆寛)
  • 斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店・2002年)p157〜188

これらの批判を全て読んだ私には、
「果たして立花はこれらの多くの批判に値する人物であるといえるのか?」
という疑問が生まれる。
立花の主なフィールドは週刊誌ジャーナリズムである。週刊誌の記事は玉石混交、正当な評価を受けるに値する記事もあれば、マユツバものの記事も確かにある。よくもまあ、と言いたくなるような、それこそほんの少しのネタから、根拠のないことをもっともらしく並び立て、大きな記事にしている、そんな記事は確かに、ある。
 ジャーナリズムの世界ではよくある話、なのに、どうして立花だけがこうも批判されるのだろうか?
それはやっぱり、立花が「知の巨人」としての権威を持っているからではないだろうか。
そしてその権威には、なにか気持ち悪いものが潜んでいるに違いない。

上に挙げた立花批判を全て読んでみて、彼に対する批判はおおかた出揃ったのではないかと思う。そうでないとしても、これ以上アラ捜しをしてもあまり意味が無いだろう。そこで私は今までの批判とは異なるアプローチを試みようと思う。
私がこの立花隆研究を始めた当初から、なぜこの人がここまで権威たり得るのか、という疑問がつねにあった。もっと言えば、なぜ立花の本は売れるのか。
ところが今までに出た、どの立花批判もこの問いには答えてくれない。
立花が売れる理由。この問いに対する答えから、現在のジャーナリズムの特質を垣間見ることが出来るのではないだろうか。

消費者のニーズに合った立花の本

 立花の著書の読者層を考える時、立花の記事や著書が理系の学者達に読まれているとは考えにくい。(実際に「科学者」と呼ばれる方々に話をうかがってみても、立花のことを知らない、あるいは知っていても読んでみたいと思わない、という答えが返ってきた。)一般のサラリーマン、あるいは学生などが主な読者層であると考えられる。立花の書く記事が掲載される雑誌を考えてみても、『週刊文春』『文藝春秋』『週刊現代』『SPA!』『週刊朝日』『週刊読売』・・・といった、どちらかといえばオジサン向けの雑誌だ。
では、なぜ彼ら(彼女ら?)は立花を読むのだろうか?
彼らは別に、専門家になりたい訳ではない。日常の話題を提供してくれるものとして、ひいてはちょっとした教養、として(?)、雑誌や本を読む。もちろんみんながみんなそんな理由ではないかも知れないが、特に週刊誌を読む動機として、事実をつぶさに知りたい、というのは考えにくい。それなら専門書にあたるだろう。彼らは「とりあえず」の「知識(らしきもの)」を手に入れたいだけなのではないだろうか?
今の時代に何が起こっているかを知りたい。でもややこしい本は読みたくないし読んでいる時間もない。だからこそ、ベストセラーやニュースなどの要約をしてくれるサービス、メールマガジン、さらには要約ソフト、などが登場するわけである。
そんな時代に立花は「知」という名の商品を提供する。
それは手軽で簡単。時間をかけなくとも結論が得られる本。しかも「知の巨人」のお墨付きである。確かに、立花のテーマの選び方には谷田や斎藤の指摘するような偏向があるのだが、政治経済分野や脳死にしろ先端科学にしろ、最新の話題がテーマとなっているので、興味をひく。そのうえ立花は文章が上手い。彼の文章には読者を引き込む力があると思う。そしてわかりやすい。読者は何らかの結論を得られたと言う満足感のうちに彼の本を閉じることだろう。確かにここにはトリックがあって、谷田が批判していたように、一見なんでもない文章でも何を言っているかわからない部分、誤っている、あるいは矛盾した部分は多いのだが、読み飛ばしてしまえば、わかった気になるのだ。一連の立花批判では、彼の文章を詳細にわたって検証しているが、大半の読者はそこまで注意深く読まないだろう。おそらく、書いてあることをほとんど疑うことなく、わかりにくい部分があっても、そこは読み飛ばされるに違いない。
・・・正確に言うと、生物のあらゆる細胞には、エネルギー産出システムを受け持つミトコンドリアという細胞小器官があり、そこではA、T、G、Cではない別の暗号システムを使っている。これは、進化のきわめて初期の段階に、別の暗号システムを使う原始的生物がおり、それが酸素をうまく使うすぐれたエネルギーシステムを持っていたので、環境に酸素が増えてきたとき、現生生物が、それをエネルギーシステムとして丸ごと細胞内に取りこんで細胞内小器官にしてしまったのだろうといわれている。(中略)そしてこのことは、現生生物がみんなスーパーファミリーという考え方に、いささかでも、修正を迫るものではない。現生生物はみなミトコンドリアを細胞内小器官として持っているという意味においても、同一のスーパーファミリーに属しているのである。(『21世紀 知の挑戦』)
この短い文章の中に、二つも間違いがある。一つは、「ミトコンドリアという細胞小器官があり、そこではA、T、G、Cではない別の暗号システムを使っている」のくだりだ。正しくは、「ミトコンドリアもA、T、G、Cの暗号システムを使っている」。別にミトコンドリアは地球外生物ではない。
 もう一つ、「現生生物はみなミトコンドリアを細胞内小器官として持っている」というのも間違っている。バクテリアなどの原核生物はミトコンドリアを持っていない。」
(谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』より抜粋)
これは、谷田が立花の文章を引用してきて、批判しているものだ。こうやって指摘されると、立花は高校の文系でも習うような生物の知識を間違っているのだが、果たして読者のうちどれぐらいの人がこのことに気付くだろうか?私は何も読者の生物の知識について言っているのではない。速読をしていく時に、この誤りは見落とされるのではないか、ということを言いたいのだ。立花のここで言いたいことは、「現生生物はみな同一のスーパーファミリーに属している」ということだ。(実際、よく考えれば、何の事やらわからないコメントである。谷田も引用部分の後でこの「スーパーファミリー」が無意味であることを指摘している。)暗号システムが云々、というところがわからなくても、そこはさらっ、と読んで、最後の結論だけを理解する。なるほど、現生生物はみな兄弟なのだな、という程度の大まかな、イメージによる理解。大まかだが、わかった気にはなる。読者のなかでこのような理解の仕方をしている人は、少なからず存在するのではないだろうか。そして、大半の読者にとっては、それでいいのだ。なぜならば、彼らが必要としているのは詳細な説明部分ではなく、結論の部分だからだ。そしてこの、大まかに理解したような気にさせるような文章力、イメージを喚起する卓越したレトリックの技法が立花の魅力なのだ。
このように、立花は現代の消費者のニーズに合った商品を提供したわけである。最新の情報を手軽に読めて、何かがわかる(気になる)。それは、これまでに一般の読者が立花の探究心に感銘を受け、立花ファンになりこそすれ、批判が出てこなかった理由の一つであり、かつ立花の著書がベストセラーになった理由なのではないだろうか。
もちろん、明らかな誤りが見落とされるのであるから、読者の、情報に対するリテラシーも問題である。ではなぜ、読者は立花を疑わないのだろうか。

立花の科学本とサイエンス・イメージ

いきなりだが、シャンプーのCMでよく出てくる「キューティクル」。これは今や珍しい言葉ではなくなった。髪の毛がバサバサするなあ、という経験の原因として名前が与えられたことによって、「そうか、きゅーてぃくるを守るのね!」と目覚めた女達が(男もいたかも)高価なトリートメント剤の消費をもたらす。
それまで専門家しか知らなかった概念を引き出してくることで説得力を持たすというのは、広告でよく使われる手法だ。ダイエット用食品の「脂肪の原因はセルライトだった!」とか、洗剤の「酵素の力」など。栄養ドリンクの「タウリン2000mg配合」などといった薬品名でもよい。多くの人は、セルライトがあるからどうなのか、酵素やタウリンが実際にどんな働きをしてくれるのか、あまりよく知らない。それでも、これらの言葉はその商品が「何だか良さそうだなァ」と思わせるのに十分である。他にも、「××研究所の医学博士××さんが推奨」なんてあからさまなのもあって、それでもなんとなく、良さそうだなあ、と思わせる力がある。
これらは皆、サイエンス・イメージ(注)による、サイエンスという名の「権威」付けだと私は理解している。言い換えれば、消費者が商品そのものの価値よりも、それに付随するイメージを判断材料とするということを利用するうえで、サイエンスが持つイメージは格好の品質証明、すなわち権威なのだ。
サイエンス・イメージについては今後も研究を続けていきたいと思っているが、ここでは立花とサイエンス・イメージとの関係について考察しよう。
立花はゼネラリストであるとして有名になった。そして、彼はもともと文系の人間であるにもかかわらず、理系の知識も豊富であり、科学ジャーナリストとしての仕事をこなしている、との評価を一般に受けている。
では、科学について立花が語ることで、サイエンス・イメージが立花のイメージをも良くしているとはいえないだろうか。権威ある科学を語ることが、立花本人にも権威を与える一因となったのではないだろうか。前述した、イメージを判断材料とした消費と同じように、書いていることそのものよりも書かれているものの持つイメージに読者が飛びついたことも立花の本が売れる理由だと私は思う。そして、読者が立花の書いた科学本を疑ってこなかったことも、その内容が権威である、正確には権威を社会的に附与された、「科学」というものに対する絶対的なイメージがあるからではないだろうか。
ところで立花は、日本における理科教育の衰退を憂い、科学的知識のない人間を罵倒してきた。「遺伝子組み換え食品」論争においても例外ではない。『21世紀 知の挑戦』の中で、「組み換え作物を食べると、その遺伝子がヒトゲノムに組み込まれることはないのか」という消費者の質問に対して立花は、それを「荒唐無稽」な心配であり、「無知蒙昧まるだし」であると扱き下ろしている。私には、なぜ消費者がその程度の知識しか持ち得ないのか、というところに問題があると思うのだが、それはさておき、この質問がなぜ出てきたのか、というところに注目しよう。この質問は、質問者の持つ「遺伝子組み換え」に対するイメージそのものを表している。この人は恐らく、組み換えとは実際何なのか、どのような状況で起こるものなのかを知らない。ただ、「組み換え」「遺伝子」という言葉の持つイメージに畏怖を抱いている。
この質問者は誰かに似ていないだろうか?―そう、立花を書いているもののイメージによって評価してきた読者である。立花の著書は、立花が無知蒙昧であるとして罵倒してきた人々によって買われ、その権威を保証されてきたと言えば言いすぎだろうか。

メディアが育てたゴジラ!

こうして立花の権威はどんどん大きくなった。教養ある「知の巨人」としての立花はメディアにおいて重宝されていると言える。とりあえず立花隆に聞けばもっともらしいことをコメントしてくれるだろう、聴衆の受けもいいし…といったところだろうか。早速今回のノーベル賞の話題でも立花はコメントを求められている。しかしこのメディアでの立花の扱われ方は、「立花の権威→売れるから使う→売れる→さらなる権威」といった具合に立花のイメージを雪ダルマ式に大きくしたのではないか。そして読者はメディアによって作られた権威を、立花への正当な評価として誤解し、ますます彼の著書の胡散臭さに鈍感になる。
立花自身が自らの発言の影響力に無自覚であることは当然責められべきであると思う。しかし、それと同時に、立花の発言の矛盾や誤りに気付かず、あるいは黙殺し、都合よく使ってきたメディアにもその責任があるのではないだろうか。といっても、NHKやTBSが今さら立花を批判できないとは思うが・・・。

立花隆という人物の存在は、私たちに色々なことを問い掛けてくれる。それは、科学ジャーナリズムという域にとどまらず、メディア全体の問題として浮かび上がってくるように思う。まだまだ議論の余地があると思う。今後は以前触れたPUS研究(立花隆研究会ホームページ「PUSによる立花批判」参照)とも絡めて、研究を続けていきたい。


注:井山弘幸は『現代科学論』(新曜社・2000年)の中で、「科学的根拠を知ろうとする以前に、科学は信頼すべき知識として君臨しているのである」と述べている。「サイエンス・イメージ」pp.120-128参照。






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