書評 松本三和夫『知の失敗と社会』

加藤源太郎(神戸大学)




現代のSTS研究の源流の一つとして、科学技術が社会問題を引き起こす罪人として扱われたことがあげられる。科学技術が引き起こした「失敗」は、科学技術に対する盲目的な信頼から目覚めるきっかけを与えた。そして、科学技術が社会とつながっているのだという主張を、いくつかの側面から展開するSTSの諸議論を導いたと言える。

科学技術がわれわれの生活に浸透してくるにつれて、科学技術と社会のつながりをはっきりと感じ取れるようになったという点は、科学に対する言及が社会的な側面を強調しなければならなくなった重要な一つの契機としてとらえておくべきであろう。それゆえ科学技術の失敗は、われわれの生活に直結した危険の原因であり、個々の失敗に対して技術や政策を批判する声は後を絶たない。近年注目されている「失敗学」は、単純な科学技術批判を脱して、同様の失敗を繰り返さないことこそが重要であるという立場から、失敗についての研究を展開している。

本書もまた、事例となる失敗を詳説しながら、科学技術の問題を取り上げてはいるが、単純な科学技術批判でもなく、実践的な利害に目を向けた、いわゆる開発志向の失敗学を展開しているわけでもない。本書の主眼は、科学技術が引き起こす失敗の構造的要因であり、それを人災でも天災でもない「構造災」と定義するところにある(第1章)。構造災は、科学技術だけの問題ではなく、科学技術と社会の境界に生起する問題であり、STS(科学技術社会)の相互作用をきちんと認識すべきであると主張した上で(第2章)、海洋の温度差によって発電する技術(OTEC)を事例として、STS相互作用系を分析する(第3章)。さらに、学問領域の異種交配性と非専門家による異議申し立ての汲み上げという二点を中心に、STSの学問的潮流の問題点を指摘しつつ(第4 章)、「知の失敗」を回避・克服するために、知のシステム、すなわち科学・技術・社会のあり方について、いくつかの提言をしている(第5章)。

科学技術の問題の本質を構造災と定義し、あえて「知の失敗」と呼ぶ本書は、失敗学的な対処療法に留まらない。科学技術を利用している以上、何らからの失敗は常に付きまとうものだという視点は、カタストロフ的な事故には許されない。科学技術に付きまとうリスクが問題になるのは、「開発上の失敗に学べ」といった比較的小規模な失敗を対象としているからではなく、原子力に代表される人類を危機的状況に陥れるような失敗というリスクを対象としているからである。おそらく、ベック(U. Beck)の議論では、この二種類の「失敗」が暗々裏に区別されている。その上で、ベックは後者の大きな失敗に着目し、再帰的近代化の過程における一つのトピックとして扱うのである。

ベックが提示するリスクの概念は、再帰的近代化という抽象的な社会概念によって原因がブラックボックス化されているが、このブラックボックス化に対して、科学技術の問題、すなわち科学技術リスクを構造災としてとらえなければならないという本書の視点は、補完的な役割を果たしている。ベックの議論は、それぞれの概念について明確で詳細な定義が与えられているわけではないので、慎重に扱わなければならないが、再帰的近代化、つまり近代の貫徹による近代性への再帰的影響が、社会の問題を惹起するというのだから、科学技術の進展によってもたらされた新しいリスクの原因を、科学技術の進展をもたらした構造の中に見出そうとする構造災という概念設定は、リスク論としてもきわめて重要な意味を持っている。

科学技術に対するリスクについての諸議論と比較してみると、STSでよく議論されているベックのリスク論だけでなく、ルーマン(N. Luhmann)のそれにも近い点を見出すことができる。「不知(Nichtwissen)」や「観察(Beobachtung)」といった概念を駆使しながら、安全であると言うときにこそリスクが潜在しているのだと主張するルーマンの議論は、科学技術のリスクが、再帰的近代化の科学技術システムにおける一つのバージョンであるととらえながら、科学技術の未来に対する楽観主義的な感を否めないベックの議論とは大きく異なっている。

ルーマンのリスク論は、リスクと安全、またはリスクとリスク回避という区別ではなく、リスクと危険(Risiko und Gefahr)という区別が出発点になっているが、自分以外の人間やシステムによって引き起こされるかもしれない未来における損害をリスクとしてとらえている。リスク論において専門家と非専門家の問題が重要になってくるのは、まさにこの点であり、すべての人間が自分にかかわるすべての事象に対して、一つ一つ決定を下すことなど原理上不可能であるという単純な事実によっている。われわれが未来において被るかもしれない損害は、われわれの手の内にはないのである。

さらに、ルーマンは「決定(Entscheidung)」という概念について、主体的な意志に基づいて結果が選択されたかどうかについては関係なく、あるコミュニケーションがあるシステムに帰属することができるととらえられるとき、そのコミュニケーションをそのシステムにおける決定と考えるのである。すなわち、この意味においては、科学技術の専門家が、社会との相互作用の中で、何らかの科学的コミュニケーションに関与しているとき、好むと好まざるとにかかわらず一つの事柄が結果として「選択」されたときも、一つの「決定」としてみなされる。

この種類の「決定」に対しても、これまでのSTSにおけるいくつかの議論は、科学技術の専門家の説明責任を追求してきた。一方で、科学技術と社会の相互作用を主張しながら、他方では科学技術によって引き起こされる問題に対する説明責任の根底を、科学技術システムに、とりわけ科学技術システムの内部に帰属する「専門家」にだけ求めようとしている議論も多い。科学技術における決定の問題を、専門家と非専門家の議論に還元することはきわめて意義深いが、本書の構造災という視点は、専門家と非専門家の二項対立を越えて存在する本質的な問題をも射程に入れていると言える。帰責を明らかにすることができる人災や、不可避の天災ではなく、システムによって引き起こされる構造災は、もしかすれば人災かもしれないが、問題の所在でさえも明らかにならないような、まさに「知の失敗」ということになる。知の失敗において専門家は無力である。何が危険であるかを決定するのが専門家であるとすれば、専門家の専門的視点を越えたところにある危険、すなわち本当の意味でのリスクに言及するためには、どのように危険が決定されているかという「知の構造」に光をあてることが必要である。

本書の提言を実践ベースに乗せるためには、議論の余地がある。なにしろ、実現を遠ざけている当の実体こそが知の構造なのだから。知の構造それ自体はおそらく非専門家によって変革されることを許さないだろう。しかしながら、定型的な科学技術批判では問題解決に至らないことが分かり始めた今日、本書の議論は、失敗についてだけでなく、科学技術の問題についての広い議論に、新しい地平を切り拓くことになるだろう。そして、STSという観点から科学技術をとらえることの意義について、再度考える契機を与えることにもなるだろう。






[戻る]
Copyright (C) 2002, STS Network Japan
All rights reserved
For More Information Contact office@stsnj.org