夏の学校感想




金山浩司(東京大学 大学院総合文化研究科)

 STSNJの夏の学校に今年はじめて参加させていただきました、東京大学M1の金山です。STSに関してまるで無知な人間が誘われるまま野次馬根性を発揮して参加しただけですので、的はずれなものになるかもしれませんが、素人なりの感想です。
 風光明媚な瀬戸内の島で行われた二泊三日の合宿、実に多種多様な年齢層、出自の方々が参加されていて、非常におもしろいものでした。とりわけ教育者の方々による具体性と説得力あふれる発表、現役女子高生の方の文字通り現場からの生の声は、教育に今のところ関わっていない僕にとっても非常に啓発されるところが大きかった。従来のできあがった知識を一方的に教え込む方法ではなく、生活に密着した/発見のおもしろさという視点を取り入れた/知識の受容課程を重要視した教育のあり方を模索しておられる方がおられること、そういった方々が合宿の場を通して学生や学者らとネットワークを作り上げようと努力なさっていることーこれらのことを知らなかった僕にとっては新鮮な驚きの連続であり、勉強になったと思います。
 ただ、これは複数の参加者から挙がっていた声でしたが、こちらに予備知識等がないせいか難しく感じられる発表もあったのも事実です。自分のあらかじめの勉強不足を棚に上げるわけではありませんが、もう少し具体的な事例をあげてもらえたりすればわかりやすくなるのかもしれない、と感じることもありました。
 発表をきいた後は寝室で寝そべりながらきいたばかりの発表についてだべっていることが多かったのですが、そのときある人から、新たな教育方法を模索するのもいいが、今までの完成された知識を伝授するという方法もある種の人々にとっては絶対必要ではないだろうか、という意見を伺いました。確かに、教育は生徒の数だけ違ったやり方でやらなければいけないものかもしれません。最近徐々に崩れつつありますが、今なお日本では大多数が高校に行って同じような教育を受け、その後の高等教育に4年制大学を頂点とするヒエラルキー構造があるとすれば、今一番問題なのは大勢をどのようにもっていくべきか、ということではなく、画一化を廃し、各人の求めるものにあった多様な教育プログラムを用意することなのかな、と思いました。素人の感想ですが、という但し書きをつけた上でこう言うのですが。
 いずれにせよ、大変今日になりました。お誘いいただいた夏目さん、三村さんに感謝いたします。来年も、どうぞ誘ってください^^


衣笠麻妃子(神戸大学 国際文化学部)

 私は今年初めて夏の学校に参加しました。発表を私にとってかなり内容でしたが、いろいろと勉強になったと思います。特に印象に残った発表について思ったことを書いていこうと思います。
 夏の学校のテーマは「生活世界における科学教育」でした。夏の学校に参加する前は、科学教育というのは、非専門家である人々(私も含めて)が、原発や公害、GMOなどの諸問題に関する知識を得られるようにする教育というイメージがありました。でも、参加して、実際に高校や大学で理科を教えていらっしゃる先生方の発表が多いのに驚きました。私は教える方よりは授業を受ける学生に近いので高校生のときを思い出しながら聞いていました。私の高校の勉強は、基本的に高校での勉強は大学受験を目指したものであり、発表で聞いたような授業ではありませんでした。私はあまり理科が好きではなかったのですが、今宮高校の平井さんの発表で行われていたような授業だったら好きになっていたかもしれません。でも、現実に私の高校で実験や発表、ディスカッション中心の授業があったら、もっと受験勉強中心の授業をしてほしいと望む生徒が必ずいただろうと思います。
 受験勉強と生活する中で必要な勉強は違っていると高校時代から何となく思っていたので「エッセンシャル・ミニマムズ」の議論はとても興味深かったです。今の高校の教育は受験勉強にとらわれすぎているように思います。でも高校のカリキュラムが変わったからといって大学受験は必要で、私が高校生のときも受験勉強になる授業を望んでいたし何が必要なのかは生徒にもよるし、難しい問題だと思います。私は高校3年生のときに予備校に通っていたのですが、授業が面白くて受験勉強という制約の中でしたが、とても楽しかったです。詰め込み勉強よりも寧ろ、自然と身につけた知識の方が受験が終わっても忘れないし、役に立つ知識だと思います。受験勉強で覚えさせられる知識は詰め込み勉強が多いと思うし、それが役に立っているのか疑問に思います。
 私はある予備校の事務でアルバイトをしているのですが、高校生・高卒生を対象とした教育産業の現場で権力というか、そういった力で生徒を押さえ込もうとする雰囲気を感じることがあります。教育の再生産についての発表を聞きながら自分のアルバイトの経験と照らし合わせていました。決められていることが全て職員の立場から考えられたことであり、生徒の立場を忘れているのじゃないだろうかと思うときがあるのです。私はその予備校の卒業生なので、生徒に近い立場いるので出来る限り生徒の立場にたって仕事をしていますが、生徒が疑問を感じることが職員にとっては生徒も満足していることのように思えていることがよくあります。また、アンケートを生徒に行って都合のいい部分だけ取り上げて職員の権力で生徒を縛りつけています。それは職員が生徒のために、と正当化しながら結局権力を行使しているだけのように思えます。
 また、豊島ツアーに参加して、これまで話に聞いていたことを実際に見て、驚きました。車の中でいろいろとお話を聞かせていただいたのですが、ゴミ問題の調停後の方が大変なのではなかと思いました。私も豊島はゴミ問題で大変な島だというイメージがあったのですが、実際に行ってみると海は綺麗だし、観光地というような印象を受けました。地元の方も過疎化が進んでいるために豊島に来る若者を増やそうと努力されていることが伝わってきました。私の友達は豊島問題について知らない人も多いのですが、より多くの人が実際を知ることができればいいのにと思いました。
 夏の学校に参加して、科学と社会のあり方について教育の視点から考えるのはとても難しいことだと思いました。自分の大学受験や今のアルバイトの体験を含めて、教育について考えさせられたし、とても勉強になった3日間でした。私の意見、というハッキリした考えは持てていないのですが、いろんな方の発表や意見を聞けていろんな考え方があるということが勉強になったし、貴重な体験になったと思います。


但馬亨(東京大学 大学院総合文化研究科)

 この夏、香川県小豆島で開かれたSTSネットワークジャパン夏の学校にはじめて参加した。日頃から大学などでSTSの名前こそ聞いてはいたが、その意義や具体的な内容に関しては個人的にはまだ今一つ釈然としないものがあったのだが、実際に参加してみると様々な点で教えられることが多かったように思う。そもそも勉強会という形態をとりながら、休み時間などに多くの人々と直に触れ合う機会があったことは有益だった。普段私の大学生活ではだいたいにおいて、知識はそれが体験的かどうかなどは問題にならず、天下り的に与えられ、それを習得するためルーティーンな日課が続く。しかし今回の合宿は、単に授業で得られる形態の知識だけではなく、全く自分とは異分野に携わる人々との情報交換や親睦を深めるために大きく役立つ大きな”場”を供給していた。私自身も確かに、今回のテーマが理科教育の問題についてであったから、講義やそれ以外を問わず、まさに今現場で指導されておられる現役の教師の方々から貴重なお話を聞かせていただいた。個人的に特に印象深かったのは、生徒の学習意欲の向上に腐心され、様々なトリッキーな実験を考案されておられる今宮高校の平井俊男さんや、生活世界というキーワードから幼い頃の個人的経験を自省的かつ率直に述べられ、対話のもたらす癒しについて語られた北千里高校の塩川哲雄さんであった。お二人とも教育の現状にただ安住するのではなく常にオルタナティブな可能性を志向されており、常に形骸化の問題を孕む教育の危険性と向き合っておられるよう、好意的に感じられた。
 ここでまた”場”の意義について、より広い意味で述べてみたい。現代における科学技術の高度な専門化と巨大化は今さらどう働きかけても否定しようのない既定事実である。われわれ現代に生きるものすべては良くも悪くもその認識から出発しなければならないであろう。その際に、ないに越したことはないが実際必ず発生するであろう科学技術の負の面について議論し、その問題を解決することが社会的に要求されている。さて、そこで省みるに、われわれの社会は限られた専門家以外にもアクセス可能な議論のための確かな”場”をもっているであろうか。残念ながら現代においてあまり肯定的な返答はできないかもしれない。しかしSTS、そしてそのひとつの表現形としての理科教育はここに大きな可能性を秘めていないだろうか。”場”を構築し、より開かれたものにすること。限られた科学技術の専門家の育成だけに教育は終始するのでなく、社会全体のより大きな幸福のため、STSの”場”への貢献が望まれる。(終)


中川暁太(神戸大学 国際文化学部)

 今回のSTSNJ夏の学校に参加して新しい研究の場を知る機会として大いに役立ちました。また今回のテーマが「生活世界における科学教育」ということもあって、日頃から教育問題に関心のあった僕としては非常に興味深いものでした。
 初めこのテーマを見たときは、「科学教育」という言葉と中学、高校で学んできた「物理」や「化学」とは異なったイメージを抱き、文系の僕としては理科系の何かとっつきにくい感じがしました。ところが発表者の方々は実際に現場で理科を教えている高校の先生方で、自分が中学、高校と体験してきたことに関連する部分も多く、非常に考えさせられました。
 特に発表者の先生方が授業を興味深いものにするために、普段から多大な努力をしていらっしゃることに驚かされました。というのも、僕の経験上理科の授業というのは「暗記+計算」ばかりで、受験に向けてひたすら知識を詰め込むだけのもので、ほとんど教科書の上の出来事のように感じられていたからです。僕は高校1年生のときに化学と生物を必修で受けていましたが、受験に間に合わすためにとてつもないスピード授業が進んでいき、ほとんど理解もできずに授業に置いていかれてしまいました。そのため2年生になってからは、星座や惑星など宇宙に興味があったことから地学を選択しました。ところが実際の勉強というものは、僕が思い描いていた宇宙のどこかロマンティックなイメージとはまったく違い、ただ公式を丸覚えしてとにかく計算問題を解くというような問題演習ばかりで、地学に対する興味までもがそがれてしまいました。
 その頃非常に強く感じたのは、この授業が実生活にどう役立つのだろうかということです。ここで塩川先生が「理科教育における体系的知識と生活世界」の中でおっしゃっていたように、エッセンシャル・ミニマムズについてもう一度考えて直す必要性があるのではないかと僕も思いました。僕が実際に経験したように、今の教育内容は実生活に結びつきにくい部分が多く、興味を与えるどころか逆に面白みも感じさせなくしてしまうところが多分にあるのではないでしょうか。教育が果たすべき役割は、現在のように受験に必要な知識を一方通行的にただ与えるのではなく、なによりも生徒に興味を持たせてやれば、塩川先生のおっしゃるように後は自然と身に付けていくようになるのではないでしょうか。
 今の入試制度などを無視して理想だけでこういう話をするのは無意味かもしれませんが、今後このような方向に変わっていく傾向があるのではないかと思います。それは、今回夏の学校に参加された現場の先生方がすでに改善の努力を試みられていることからも言えるのではないでしょうか。ニュートンだってリンゴが木から落ちたという実生活での体験を元にして万有引力の法則を発見したわけですから、生活に結びついた経験から興味をもつという可能性を重視して、教育の現場でそういった体験を多くとりいれることが大切なのではないかと思います。


中俣宏貴(東京工業大学 生命理工学部)

 27日深夜、駅集合。近日の猛暑のため、体には疲労が色濃い。これから、電車で十数時間の四国旅行。乗り継ぎに乗り継ぎを繰り返して、やっと着きました小豆島! 東京と違って、結構緑があって、空気も澄んでいて少し疲労もとれました。現在約PM1時。午後4時に夏の学校開講ということで、2,3時間の空き時間ができました。しまにきた解放感から、暇つぶしに、山登りの衝動に駆られました。目指すは、眼前の山の頂上、の岩肌。そこまで一本道でした。心地よいだるい暑さでした。森の中の道をくぐりました。一時間ちょっとで山頂に到着しました。風が強くて、快適でした。帰り道の途中に寺があって、仏教の参拝の人たちがたくさんいたので、まだ時間も余っていたので彼らのバスに同乗して、小豆島で一番高い山に行きました。一時間ちょっとで山頂に到着しました。風が強くて、快適でした。夏の学校の会場から、10k足らずの距離 標高約700m。雲間の山頂でちょうど祭りの日で、人がたくさんいました。しかし、時計を見ると、3時半。帰りのバスの出発は、4:07.……間に合うのは絶望的でした。でも遅刻はできません。ロープウェーに乗って下山しました。会場まで残り5km強、4時まで18分。走りました。そこに車がきました。ヒッチハイクをしました。夏の学校の会場まで送ってもらいました。時間ピッタシ。島の人は親切だと思いました。島の観光も終えて、いよいよ夏の学校のが始まりました。
 夏の学校は「教育」をテーマに高校教諭、大学教授、生徒など、約50人がいました。発表は僕の日ごろの教養のなさのため、ほとんど発表内容を理解できませんでした。チンプンカンプンになっている人はほかにもいました。比較的分かりやすかったのは『ゆとり教育』による子供たちの学力低下に関する話や、授業をする側から考えていく授業の仕方(特に話術に関して)についての話あたりです。ゆとり教育をやってしまうと全体として、子供たちの学力低下が生じてしまうというのはもちろんのこと、勉強のできる人とできない人の差が大きくなってしまい、将来の大人を2つのタイプに大別できるような社会が形成されてしまう可能性もあるので自分はゆとり教育には反対です。また、話術の話のほうでも授業にユーモラスを取り入れてやる、とか、何回も大切なワードを言ってやって生徒たちの脳にサブリミナルさせる、とか、集中の持続には限界があるのでインターバルをとって授業をしていくべきだなど(もっと高度なこともおっしゃってました。)の提案をしていました。教師から引っ張っていく授業をして、やる気のある生徒が生まれ、理想的な授業ができるという考えも大切だなと思いました。
 昼になると海に出かける人もいました。海は、会場から少し離れたところにありました。海では、テトラポットまで泳いだり、記念に写真をとったりしました。目いっぱいに泳いだので気がつくと足の裏が切れてしまっている人が何人かいました。海はとても楽しかったでしたが、楽しみ過ぎて次の発表に遅れてしまいました。また、1日目、2日目の夜には、懇親会も開かれて、そこで楽しく会話に花を咲かせました。いろんな知り合いができました。自分は教育の再生産の意味がわからないので質問したりしました。再生産の意味を理解してみると、生まれながらにして、頭の出来不出来が環境などによりある程度予測されてしまうということが分かり、僕らが、国に学業機会均等の対策を練ってやれるように努力すべきなどと考えさせられました。懇親会にはお酒もあったので、十分に楽しめました。
 全体として、夏の学校の、発表の内容レベルは、かなり高いと思いました、そのために、発表に取り残されてしまった人(自分も含まれるが・・・)もいたのでそこに対しての対策を考えて欲しかったです。そして3日間でたくさんの発表を設けたので、小豆島観光の時間をみんながしっかりとれたかというと過密な予定のため無理だったと思います。でも少しではあるが知識は得られました。よかったです。


茂木信宏(東京工業大学理学部)

 こんにちは。今年夏の学校初参加の茂木です。この度は小豆島という旅情あふれる島でみなさんと真摯に意見交換したり、さらには海水浴したり、様々な体験ができたことをうれしく思います。
 発表の場では、STS(Sience,Tecnorogy&Society)教育の理論から実践までいろいろな見識や実践報告をきくことができました。正直なところ、僕は普段は社会科学の話題にふれる機会があまりなく、発表に措いて専門的な用語や理論がしばしばでてきたことには多少戸惑いを感じました。お恥ずかしながら、ときどき気がつくと話が飛んでいたり、さらに夢の世界に誘われていたりしたことも少なからずあったことも告白します。 
 しかし、ここへ来る前の社会科学のバックグラウンドがほとんどゼロだった僕にしてみれば、たとえ専門用語がわからなくても、現代の教育の危機や、その危機に対して実践すべきこと、そして現代社会が求めている教育の形など、おおまかな議論の概観は理解し、共感し、自分の質問へと還元することができたので、夏の学校が目的としている収穫は僕にとって大いにあったといえます。
 ところで、僕がこの夏の学校に参加した動機を話したいと思います。
 僕は普段、授業では理系専門科目ばかり、課外活動では体育会系の器械体操をけっこう入れ込んでやっていています。そういった、自分の能力をひたすら伸ばしていくことに価値を見出す社会では、そこに暮らす人々の議論の対象は、どうしても、どのように能力を伸ばすかに偏ってしまい、社会にその能力をどのように役立てるか、また能力の芽を伸ばす土壌である社会そのものあり方についての議論は忘れられがちになってしまいます。実際、そんなことを議論してもなんの役にも立たない、めんどうくさい、そんな議論は好きな奴に任せておけばいい、といった価値観が常識の一つとして根付いてしまっているように思われます。僕は最近おぼろげながら、そんな価値観は無責任だし、それをそのままに放置しておいてしっぺ返しをくらうのは自分たちに他ならないと思い始めていて、そういうことについて意見交換できる場があればいいなと思っていました。そんな矢先、ある友人からSTSnjの夏の学校へ誘われたのは僕にとって幸運でした。
 会場が遠く、僕が普段つきあっている友人たちの中に、そういうところへ一緒に行きそうな人もいなかったので、行く前は少し迷いました。しかし実際行ってみると、何も知らない僕にみんなとても好意的に接してくれ、一緒に過ごしていて居やすかったし、海水浴や懇親会(宙返りがウケてうれしかった)はとても楽しく、良い思い出になりました。
 最後に、あくまで僕から見て、夏の学校2001の一番良かったところと、良くなかったところを挙げてみます。 まず良かったのは、幅広い年齢層、分野の人が参加し、意見を交わし会えたこと。普段話す機会がないような人同士が集まってこそ、こういう合宿の意味があると思うし、盛り上がるのだと思います。欲を言えば中学生や高校生(実際教育をうける当事者)にももっと参加してほしいです。実際、今回高校生の小林さんの意見はとても印象に残りました。
 次に良くなかったのは、ときどき発表時、あまりに専門的な議論に入りすぎて知識人同士のみによる意見交換になっていたこと。そんなときには、多くの人にとって話に入っていける隙が見つからず、自然と質問する人も限られてしまい、他の人はぼーっと聞いているか寝るしかないといった状況でした。専門知識の演説は学会でやったほうが盛り上がるし、評価されると思います。年齢層や分野の違う人にも、ある程度付け入る隙を与えてほしかったです。 最後の最後に、発表者、幹事のみなさん、おつかれさまでした。






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