『現代思想』2001年8月号(vol. 21-10)

「サイエンス・スタディーズ」特集号についての読書案内

隠岐 さや香(東京大学)




 「サイエンススタディーズ」特集として組まれている対談、論文などは以下のようになっている。

エッセイ

インタヴュー 遺伝子 科学と帝国主義 新自由主義 近代科学のディシプリン

 全体として、日本で「科学史」「技術史」「科学哲学」「技術哲学」「科学論」「STS」などと言われる分野に関わっている著者、もしくはディシプリン上は違っていても現代の自然科学・技術的知と社会が交差するところで生じる諸問題系について取り扱った筆者の論考が並んでいる。扱われているテーマはというと、現在日本の上述の分野で行われている諸研究のうち、「遺伝子」、「科学と帝国主義」、「新自由主義」、「近代科学のディシプリン」など、現代社会の文脈に沿った時事的なテーマが中心となっている。その一方で、村上陽一郎氏、中山茂氏、中岡哲郎氏という戦後の科学哲学、科学史、技術哲学・技術史研究において主要な役割を果たした世代に濃密なインタヴューを行うことで、過去の忘却に陥るのを防ぐという、バランス配慮も忘れてはいない。
 以下では、テーマ分類ごとに節を設け、私自身のコメントも交えつつそれぞれにおける大枠の論調を紹介していきたい。

エッセイ・インタヴュー

 実際のところ、この部分自体がこの特集の良い総括的な内容になっている。従ってここで私が何かを付け加えてもそれは注釈に注釈を付け加えるようなあまり意味のないことだろう。回顧的な側面と同時に、科学者自身の率直な現状認識(養老氏)、科学の公衆理解問題、IT、グローバリゼーションと技術など、非常に今日的なテーマについて示唆を与えるトピックが次々と展開されており、科学史・科学哲学、技術史・技術哲学を包含する意味でのサイエンススタディーズ自体が依って立つ歴史の厚みとその展望を概観出来る。

遺伝子・新自由主義

 この二つのテーマを並列されてコメントするのは、これらの問題系が相互に複雑に絡み合っているからだ。非常に大ざっぱに言うなら、前者は後者に対して一つのケーススタディーを提供する関係にあるだろうし、逆に後者は前者に対しその複雑な問題を取り扱うための理論枠の一つを提供するともいえる。ここでは、雑誌の編集形式に従い、「遺伝子」から順に見ていく。
 まず、金森氏の論考は、どちらかというと短編小説というより、連載長編の途中の回として読むべきだろう。氏は近年この問題についてずっと独自の思索を深めており、その問題意識の射程はこの論考一本に収まりうるものではない。ここで扱われているのは主に、遺伝子改造、それもいわゆるパーフェクト・ベビー作成といった事態に、いつか直面するとして、その時我々はどう対応するべきか?という問いである。これに対して氏は現段階判断を留保しており、今後の展開が待たれるところである。
 ところで私個人として気になるのは、氏が例として紹介しているアメリカの人間遺伝子改造擁護派の議論において、彼らが社会・経済的インフラの整備より個人レベルへの介入やテクノロジーによる解決をより容易と捉えている様子がたびたび浮かび上がることだ。すなわち、障害に対するサポート体制を十全に整えるための資本投下を増やすより(その重要性は否定しないにしても)、その様な障害を起こさせないための遺伝子改造技術に投資する方が合理的であるとみなす感覚が前提となっているのである。その際、遺伝子改造技術に対する人々の「抵抗感」は非合理的で説得力に欠けるものとして解釈されている。しかし、大塚善樹氏の論考やB.ウィン氏の議論が示しているところでは、一般の人がもともと持つ世界観・知識・判断力を非科学的・感情的で「変革されるべき」ものとして矮小化する認識(「欠如モデル」の公衆像)自体が危うさを秘めているという。また付け加えるなら、実際、「容易には変わらない」はずの社会・経済的インフラはその内部の理論に基づく戦略的要請があれば恐ろしいまでの柔軟さをもって変貌するのであり、ただ外部からの「一般人の立場に立った」要請や、もしくは短期的な視野での経済効率に沿わないインプットを好まないだけである。例えば、合理性云々を言わずとも、消費者の嫌悪感さえあれば食品産業がスーパーの棚から「GM不分別」の食品を撤回したり、膨大な予算を投じてでもGMトウモロコシ「スターリンク」の混入を防ぐよう流通経路を管理したりすることが実践としては可能なのである。そしてこうなると行政も容易にその後追いをする。
 ところで、GM食品が一般には不可視のものとなったというこの一見喜ばしい事実は、実際に何が起きているのかが舞台裏に隠れてしまったという意味でもある。大塚氏も指摘しているように、本当の困難は一見物わかりのいいこうした「柔軟な対応」の裏に潜んでいるのだろう。一世代前の搾取・抑圧というイメージから一転した、この「消費者の皆様のニーズに次々と答える」大企業資本や行政によるある種の物わかりの良さに対して、一定の批判的態度を持ち続けることの重要性は、次の「新自由主義」特集が示す通りである。サイエンススタディーズ関連の諸研究が読める日本語媒体の中で、この種の議論を一番しっかりと読めるのは『現代思想』だろう。同誌は日本において早くから新自由主義についての批判的考察を深めてきた媒体の一つであり、科学論系の論者とのその理論的蓄積との出会いは柿原泰氏の「ネオリベラル・テクノクラシー批判」(同誌、2001年2月号、122−135ページ)など、近年いくつかの論考において果たされてきた。ここではその柿原氏の別の論文に加え、H・アレントの議論など公共空間の概念に対する哲学的思索も交えた平川秀幸氏の論考や、これまでの科学論に内在する方法論上の問題を扱った綾部広則氏の考察等が揃うことによって、よりまとまった形でその広がりに触れることが出来る。また、防災事業に潜むテクノクラティックな欲望の存在を示唆する矢部氏の論考は、いつもながら思考の柔軟体操とでもいうべき発想の転換のヒントを与えてくれる。ただ残念なのは、時間不足ゆえか思われる駆け足の展開を見せる論考が全体として多かった点だろうか。

科学と帝国主義

 周知の通り近年の科学史で最も活発な分野の一つとして認識されている。もちろん、「科学史」の枠に留まらない展開を見せており、近年は東アジア諸国との連携も進んでいる。だが、欲を言うならもう少し事例研究も欲しかった。加藤氏の論文、翻訳論文どれもが、この分野の展開や論争の経緯、内容など、どちらかというと方法論的側面に重きを置いた内容だからである。塚原氏が西欧列強の帝国主義に対する非西欧世界知識人の複雑な反応例として「帝国主義者」佐久間象山の興味深い事例をちらりと紹介しているだけに、あおられた好奇心が宙づりになってしまった感がある。ただ、そういう率直な感想とは別に、この特集の読み方として、植民地というタームから想像される19世紀の歴史物語を求めるのはあまり正しくないのかもしれないとも考えられる。環境保護など地球に優しげな多国籍企業体が、GMOなど新たなテクノロジーにより、場合によってはかつての植民地科学より更に凶暴で徹底的な「支配」行いうるというのが先の特集の内容だった。科学と帝国主義研究における方法論的蓄積はここでは現代に引きつけて読む必要があるのだろう。

近代科学のディシプリン

 この小特集では哲学、社会思想史、経済思想など、いわゆる科学技術史、科学技術哲学、科学社会学ディシプリンに属する論者でない方々が独自の議論を展開しており興味深い。同一テーマのもとにまとめられているものの、各論考の独立性が高いため、ここではそれぞれについて私が理解した範囲での解釈、コメントをつける。
 古賀徹氏は近代科学が対象に向ける眼差しというもの自体を問題にする。水俣病に冒された盲目の老人が、彼に対するあらゆる知のアプローチ、理解を拒絶するという事例を用い、「自然科学」、「社会科学」(経済学など)など、定量化されたある意味非人間中心的な学の営みのみならず、「人間」を対象とし前提する「人間の科学」(思想や歴史など)からも擦り落ちてしまっている眼差しに目をむける。その眼差しは、資本主義社会の中で常に削り落とされ「廃棄物化」された残余全て--それは椅子になれなかったカンナ屑、生産過程の副産物でしかない有機水銀などのモノから、個人が社会において「有用な主体」たるために抑圧した影の<主体>にまで至る--自体に宿り、寄り添うものである。詳細は本文を読んで頂くしかないが、言葉で語りうる何ものかの限界に迫ろうとするこうした試みはいつも、果てしなく文学に残された領域に接近していくのを感じる。
 他方で、柿本昭人氏は自然科学「普遍」の概念について、カッシーラの議論に依拠して、単純な科学万能主義に陥らず、かつ科学の無根拠さを安易に主張するのでもない哲学的考察を行っている。例えば、いわゆる観測の理論負荷性という主張は決して普遍の単純な否定ではありえない。完全無欠な無菌状態の中立的な観測データから普遍的な原理が導き出されるという考えこそ幻想に過ぎないのだ。個々の実験は、観測者それぞれの理論的立場が前提する個別の「普遍」概念をによって解釈される。ゆえに自然科学、例えば物理学などはその個別の「普遍」の集合体であり、それぞれの普遍が作用しあう力学場から全体的な「普遍」が学自体の原理として導かれる。しかし、その段階に至った「普遍原理」は決してそれ自体として証明され得ない。そこには暴力的な飛躍が存在するのである。1960年代以降ばかりが注目を集めがちな現代にあって、20世紀前半の議論と正面から向き合うことの重要性を改めて確認させてくれる論文であった。難を言えば、漫画家岡崎京子のセリフを引いた冒頭と中間のつながりが少しわかりにくいのが読む上での難点だろうか。
 最後になるが、長尾伸一氏は、経済学の学問的基盤も問題にし、市場普遍主義の起源が、アダム・スミスによるニュートン主義モデル援用という従来考えられていたような単純な物語ではないこと、更にニュートン主義が非常に多様な思想的厚みをもって当時の哲学や信仰と結びついていたことを論じている。近代科学の世界観が人間の宇宙認識、社会認識にどう結びつき、影響を与えるかについての壮大な視座を含んだ歴史的ケーススタディである。ただし、認知科学的知見をも用いつつ近代文明論へと展開する最終節は気宇壮大で面白いものの、少し冒険的すぎるきらいもある。

 このように、ミクロの遺伝子から宇宙論までと広がりを見せる科学論の対象の多様さと相応するかのように多種多様な論者の集まった『現代思想』版サイエンススタディーズ特集は、必ずしも「科学論」畑とされない論者との有益な知的交流なども交え、育ちつつあるこの分野の幾分混沌とした豊穣さと可能性を呈示してくれているといえよう。






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