2001年度秋のシンポジウム
『科学技術ジャーナリズムへの期待』報告
野澤聡(東京工業大学)




 昨年の11月23日、2001年度秋のシンポジウムが『科学技術ジャーナリズムへの期待』と題して東京大学先端科学技術研究センターで開催された。丁度一月ほど前に「国際科学技術ジャーナリスト会議」が開催されていたこともあってか出席者の関心は高く、活発な意見交換が行われた。
 STS Network Japan代表の夏目氏は、冒頭に行った趣旨説明の中で、科学ジャーナリズムが一般の人々に科学技術の社会的問題を考える際の材料を提供するという重要な役割を担っている一方で、報道のあり方に関する問題、あるいは近年部数が伸び悩んでいる科学雑誌の編集方針など様々な課題に直面していることを指摘した。こうした科学ジャーナリズムを巡る様々な課題についての理解を深め、広範な議論の出発点となることが本シンポジウムの狙いであった。以下では私の感想を交えながらシンポジウムの様子を素描してみたい。

 最初に科学ジャーナリストの中村雅美氏が「国際科学ジャーナリスト会議」に参加した印象や感想を出発点に報告された。とりわけ中村氏が強調したのは、科学ジャーナリズムのエンターテインメント化の問題である。例えば、テレビ朝日が行った所沢のダイオキシン報道では、面白さやセンセーショナリズムが先行し、科学的裏付けが充分でなかった恐れがある。
ここに科学ジャーナリズムの難しさが凝縮している、と中村氏は言う。以前ならば高校卒業から大学教養課程程度の予備知識を読者に想定できたものが、最近では中学卒業程度の予備知識しか想定できないために分かり易く伝えることに精力の半分以上を費やさねばならず、その過程で誤魔化しや嘘が入り込み易い。また、前提となる事柄を説明していると肝心なことが書けなくなってしまう。中村氏は読者に対しても率直なもどかしさを表明された。科学ジャーナリズムに対する読者の反応の多くは感情的であるため、継続報道によって証拠に基づいた建設的議論がなかなか行われないというのである。
中村氏によれば、科学ジャーナリズムはアカデミック・フィールドとソーシャル・フィールドのつなぎ役という重要な役割を担っている。日々高度化・複雑化する科学技術が今後ますます生活の隅々にまで入り込んでくることが予想されるため、研究・開発の現場と生活の現場を結ぶ努力は一層必要になるに違いない。
 続いてSTS Network Japanのメンバーである服部恭子氏から、国際科学技術ジャーナリスト会議の際に実施されたアンケートの報告がなされた。このアンケートは事前申込者に対して会議後E-mailを用いて行われたものである。一覧表にまとめられたアンケート結果を見ると、多くの回答者が各々の興味関心についてはっきりと意見を寄せていることが分かる。その主張は、科学技術の暴走への恐れ、科学の面白さを強調すべきだという主張、宗教と科学の関わり、会議の公平性と極めて多岐にわたっており、回答者の熱意が伝わってくる。残念なことに、このような非常に興味深いアンケートを元にした議論を行う時間はほとんどなかったが、シンポジウムの参加者は、このアンケート結果の一覧表に書かれた様々な意見を読むことで、参加者の多様性や会議への関心の高さを垣間見ることができたであろうと思われる。
 3番目に、STS研究者である南山大学の小林傳司氏から「媒介の専門家はどこに?」という表題の報告がなされた。小林氏は枕として、科学技術記事の扱いについて不満を述べられた。例えば狂牛病についても最初は一面扱いであってもすぐに片隅のベタ記事なってしまい、個々の事実の繋がりや問題の広がりが非常に見えにくくなっているという。  小林氏は、自身が関わったコンセンサス会議において、メディアの重要性を強調した。一般から広く参加者を募り議論を重ねて政策決定に反映できるような一定の報告を出すことを目的とするコンセンサス会議もマスメディアによってその存在が広く伝えられて初めてその意義を充分に発揮することができるのである。他方、コンセンサス会議の結論も広く報道される必要があるが、小林氏によれば、その後追い報道は必ずしも充分ではなかったということである。
 ここで小林氏はPUS(Public Understanding of Science)における対照的な2つのモデルの前提を紹介された。従来の欠知モデル型PUSでは、社会を原子化した個人の集積と見なし、無知とは知的真空・正しい知己式の欠如であるとされている。また社会は科学知識と同じ価値観を共有し、確実性とゼロリスクを求め、有効な知識は遍在していると考えられている。一方、社会学的な考察に基づくPUSモデルでは、社会が多様で固有の地域知をもっており、無知とは積極的な反省的思考の結果であるとされる。また多様な価値観の間に妥協や適応が生じており、科学という制度に対する不信感が存在し、専門家と権力との間に相互依存の構造があると考えられている。
当然予想されるように、コンセンサス会議は後者のモデルを前提にしている。前者のモデルを前提とするならば専門家のみの検討で必要充分だということになるが、今の知識で安全だという議論は将来への安全を保障しない。ゼロリスクが実現できない以上、将来にわたる政策を従来型モデルによって決定するのは不可能である、ということを小林氏は主張しているように思われる。
また、コンセンサス会議を機能させるためには専門家が一般の人々の不足している知識を補給するという従来の一方通行的な関わり方では不十分であり、「媒介の専門家」の役割がクローズアップされることになる。そしてこの「媒介の専門家」とは科学ジャーナリストに他ならない。
 4番目には「科学と社会を考える土曜講座」代表を務める上田昌文氏が「科学ジャーナリズムと市民運動」という表題で報告された。上田氏はまず、科学技術に対する市民の2つのポテンシャルについて次のように述べた。1つは、市民は知識の素人であるが、利害関係の当事者となることによって、問題解決のポテンシャルを発揮する存在になる得るということである(「自己学習能力のポテンシャル」)。もう1つは、科学技術にロマンを感じる人は少なくないということである(「好奇心・親近性のポテンシャル」)
 市民の持つこのようなポテンシャルを発揮させるために、上田氏は科学技術ジャーナリズムに対して次のような4つの問題提起と提案をされた。(1)ジャーナリズムが世界的な問題や科学技術政策システムを的確に分析・報道する必要があること。(2)中立不変の立場の維持が最優先されるのではなく、未決あるいは対立の状況を広く公開することで事態の前進を図るべきであること。上田氏は所沢ダイオキシン報道に関して、テレビ朝日はそのような実態の問題提起を行ったという点において、基本的に良い貢献をしたと評価する一方、JCO臨界事故については誰が被爆したのかという肝心なことを報道しない点を批判している。(3)ジャーナリストが多くの分野にまたがる情報と問題のエディターになって、市民が抱える科学技術的な問題に関する紹介窓口の役割をメディアが担って欲しいということ。(4)科学技術の活動を総体的に把握して、市民との多様な接点を保つようなシステム作りをして欲しいということ。例えばNHKの「地球法廷」のように市民参加をする番組作りや番組のビデオライブラリー化、あるいはまた教員とジャーナリストの共同作業、科学雑誌や番組の国際的な評価、さらにはアジアや第3世界の視点、すなわち収奪の構造と科学技術の関わりを問うことが必要である。このような視点は日本が生き残るために是非とも必要であると上田氏は強調した。
 上田氏の科学技術ジャーナリズムに対する大きな要求は、大きな評価と期待に裏打ちされている。例えば上田氏自身が多くのTV番組のビデオを蒐集・活用していることもその証左となるであろう。
 5番目には、東京大学大学院修士課程で物理を研究している浅川直輝氏が「科学ジャーナリズムへの憧れと現実 就職目前の学生の視点から」という表題で、科学ジャーナリストを志望する学生の立場から報告された。浅川氏は科学ジャーナリストを役割に応じて4種類に分類する:すなわち、科学の面白さを伝える「科学ライター」、狭義の科学ジャーナリストである「科学評論家」、ニュースとして科学を速報する「科学ニュース記者」、業界向けに情報を発信する「科学専門記者」と「科学広報家」であって、それぞれに困難を抱えている。まず科学ライターは市場パイが非常に小さく、第一次資料へのアクセスが難しい。また科学評論家はセンセーショナリズムを避けるべきなのか、また安全性についてはっきり意見を表明すべきなのかなどについては難しい判断を迫られる。科学ニュース記者は、発表ジャーナリズムに陥りやすく、速報性ゆえの知識不足が付き纏うし、公正な報道を目指すために論争を避ける傾向がある。さらに科学専門記者や科学広報家は業界向けであるために批判的精神が弱いという点はジャーナリストにとって大きな弱点になるという。
 そこで科学ジャーナリストの養成という点で日米を比較してみると、アメリカではいくつかの大学にコースがあるのに対し、日本では科学ジャーナリストを養成するという観点が見られないことが分かる。このような厳しい状況で、浅川氏は大学や研究機関のホームページやSTSを科学を分かり易く説明する訓練の場として活用することを考えているようである。
 浅川氏は『ホーキング宇宙を語る』と『メタルカラーの時代』出会って科学ジャーナリズムへの憧れを抱いたという。科学の面白さを感じ、その面白さを伝えようという氏の情熱は、科学ジャーナリズムが抱える様々な困難を知りつつも衰えることなく純粋かつ強烈であるように思われる。その一方で浅川氏は科学ジャーナリストの原点として、科学技術と人間という視点を挙げ、脳死の息子との対話という「事実」は、科学で証明できる事実とも、裁判で証明される事実も異なるが頭から否定することはできないという例を引かれた。科学技術に強烈な思い入れを抱きつつ科学万能に偏らない浅川氏がどのような科学ジャーナリズム像を切り拓くのか大いに期待したい。
 6番目に、ユニバーサルデザイン総合研究所主席研究員の林衛氏が「科学ジャーナリズム啓蒙時代の限界を乗り越える 戦略的科学ジャーナリズムの可能性」という表題で報告された。林氏も認めるように、出版界を取り巻く情勢は厳しい。終戦直後のように岩波の『哲学講座』に徹夜の行列が出来、高度成長期には部数を伸ばしたものの、オイルショック前後の頃から雑誌、講座、新書などいずれも部数を減らし続けている。それはよく言われるような「文化の軽薄化」が原因なのだろうか。林氏はそう考えない。むしろ、高度成長期の習い性で「読みたい人に届ける」真摯な努力を忘れてしまった「つけ」を払わされていると考えるべきなのだという。
 「読みたい人に届ける」ために何をすべきなのだろうか。現代は個人的にも社会的にも科学的知識がなければ意思決定できない事態がますます増加している。このような時代において専門家と知的欲求を持つ市民の共通媒体である科学雑誌には必ず需要があると林氏は考えている。彼は岩波書店の『科学』の原稿を依頼する際に「わかりやすく」という代わりに「重要な研究を魅力的に」書いてもらうことにした。また、購読申込書を雑誌に添付したりホームページを作成するなど宣伝販売戦略を練り直した結果、二十数年ぶりの部数増を達成したという。この事実は科学ジャーナリズムに大きな可能性を感じさせてくれる。
 現代は啓蒙ジャーナリズムが限界を迎えている時代である、と林氏は言う。例えば神戸の活断層は1981年以来中学校の理科の教科書にも掲載されているような周知の事実だったにも関わらず、人々は地震の備えをしないまま大地震を迎えてしまった。このような事態に直面して、科学ジャーナリズムは単に知識を伝えるだけではもはや全く不十分で、科学的知識を生かすための社会の仕組みまで問題にする必要があると林氏は考えるようになったという。また堺市にO157集団感染が起こり、感染源とされたカイワレ大根を巡る騒動も、科学ジャーナリズムが機能していない例として挙げられた。マスメディアによって断片的な情報が増幅して伝えられた結果パニックが起きたのであって、市民が無知なために生じたのではないのである。
 これとは対照的に、地震予知の研究が進んだ結果、「地震の文化」とでもいうべきものが生まれ新たな商品開発に結び付いた例もある。そこに林氏の提唱する戦略的科学ジャーナリズムの原型がある。従来は政府と科学者集団を頂点として科学ジャーナリズムが知識を底辺の市民に伝えるというピラミッド構造であった。これに対し、戦略的科学ジャーナリズムでは市民、政府、科学者集団がネットワークのように結びつき、時には市民と結び付いて企業や自治体を動かすような役割を果たしてゆくものなのである。

 これに続いて総合討論が行われた。私の印象ではメディアやジャーナリストの役割あるいは責任が議論の中心であったように思われる。それに関してここでは2つだけ議論を紹介したい。
安全という判断は誰の役割なのかという浅川氏の問いかけに対して、中村氏は、建前上はジャーナリストが判断すべきではないが実際はしている場面があり、判断する場合にには責任を持って行うべきであると主張した。また林氏は事実を選び取り上げるのも価値判断であるから、根拠を明示することが重要であると指摘した。更に小林氏は市民パネルにおける責任の所在が明確ではないことを指摘した。
また、メディアが市民の声を伝えるチャンネルをプロデュースする役割を期待する小林氏に対して、メディアがコミュニケーションのプロデューサーになるのは難しいのではないかという疑問が参加者から寄せられた。これに対し、中村氏はそういうこともあるが方向性は出さないという点、GMOや遺伝子治療などの具体的問題への関与の程度については結論が出ていないという点を指摘した。小林氏は事務能力や資金は政府に依存するとしても、カウンターバランスやチェック機能はメディアにしかできないと主張した。また上田氏はメディアが報道することによって活動が広く認知されることの意義を強調した。

 以上、私見を交えながらシンポジウムを振り返ってみた。ここでもう少し全体的な印象を述べてみたい。このシンポジウムでは科学ジャーナリストの話を間近で聞くという得難い機会をもつことができた。個人的にはこれがこのシンポジウム最大の成果であると感じている。しかしその印象が余りにも強烈過ぎたため、それに囚われてしまい、議論の方向性を狭めてしまったという思いも残る。
いみじくも何人かの参加者がコメントしているように、我々は期せずしてメディアに過大な要求をしていたのではなかろうか。あるいはジャーナリストの方々の考えを知ろうとすることに集中し過ぎはしなかっただろうか。ある参加者が専門家とジャーナリストの役割分担の必要を説き、専門家内でのコンセンサスを求めたのは適切だったと思う。出席したジャーナリストの方々が口々に述べられたように、科学ジャーナリストは限られた人数と資源の中で奮闘せざるを得ないのが現状なのだ。
 あるいは科学ジャーナリズム自体未だ成熟とは程遠い状況なのかもしれない。安全を巡る議論でも極めて多くの深刻な問題が手付かずのまま横たわっている。コンセンサス会議は科学知識の新たな可能性を示しているかもしれないが、同時にその決定の責任関係について新たな問題を提起している。さらにまた、専門家と市民の間の意思疎通だけでなく、異なる分野に属する専門家の間での意思疎通についても、問題の存在に気付いたばかりである。
 少なくとも私にとって、今回のシンポジウムで何らかの問題意識を深めることができたとは残念ながら言えない。しかしながら、非常に沢山の問題の存在に気が付くことが出来たと言うことはできる。考えるべき問題を持たねば考えることすらできないのだからこれは重要なことだ。そのような貴重な機会を与えてくれたパネリストをはじめとする関係者の方々のご努力に心から感謝したい。



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