【書評】

『迷路のなかのテクノロジー』


H.コリンズ・T.ピンチ
(村上陽一郎・平川秀幸訳)
化学同人、2001年5月、2200円+税
ISBN4-7598-0872-8
評者:中村 征樹(東京大学)




テクノロジーへのまなざし

 本書は、前著『七つの科学事件ファイル』(福岡信一訳、化学同人、1997年)の続編をなすものである。その大きな違いは、前著が科学を主たる対象としていたのに対して、本書は主に技術を取り上げているところにある。ただしここで技術というとき、それはあくまでテクノロジーのことであり、より正確には、科学に基づいたテクノロジー(science based technology)であることに留意する必要があるだろう。本書は、テクノロジーが科学的知識を裏づけとし、そこから正統性を調達することによって、他者からの批判的介在を許さないようなかたちでその「専門性」を構築していくことに対して、批判的なまなざしを提示する。本書と前著の違いは、相互に密接に絡み合った科学・技術を対象とするなかで、その重心がいくぶん後者に寄ったものであるにすぎない。だから本書が前著の続編だというのは、対象を科学からテクノロジーへとあらためて設定しなおしたというのではなく、むしろ前著の自然な延長線上にこそ本書は位置付けられるということだろう。
 にもかかわらず、本書には、議論にあぶなっかしいところはほとんどみうけられない。少なくとも評者にはそう感じられる。事実、本書は、「学ばなければならないのは、(科学や技術に対する−評者)正しい期待である。(・・・)本書における事例研究は、(・・・)理性からの破局的な離脱を回避する助けとなることを目指して行われている」(249ページ)という、きわめて妥当な指摘で締めくくられている。それは一つには、サイエンス・ウォーズの経験が良い意味で生きているのだろうと考えられるが、しかしそれ以上に、本書が、テクノロジーという、社会と直接的に結びついた、ある意味で「人間くさい」営みを対象としているがゆえなのだろう。科学知識の形成をめぐる社会学的、人類学的研究で得られた成果を、さらに純粋な科学研究の分析へとむけて先鋭化し、認識論的な問題へと拘泥していくのではなく、科学研究が社会と結びつく場としてのテクノロジーへと着目し、そのあり方を社会的によりのぞましいものへと転換していく道を探っていくために活用していくのは、少なくともマクロなレベルでは健全な動きだといえるだろう。それは、科学研究における資源分配のありかたをも問題視するSTS研究者にとって、STS研究それ自体における前線配置や資源分配の問題(どのような研究が推進されるべきか? 限られた人的、時間的、物的資源をどのように活用していくべきか?)として、積極的に考えていくべき問題だと思う。

技術倫理のテキストとして

 本書は、テクノロジーをめぐる7つの事例研究からなる。ただしその特徴は、コリンズとピンチ自身によってなされた事例研究をまとめたものではなく、彼ら自身の研究成果も盛り込みながらも、その主たる目的として、すでにSTS領域で蓄積されてきた研究の成果を、彼らの視点から簡潔に提示し、紹介するところにある。いくつかの事例は、STS研究者にとってはすでによく知られたものであり、そうでないものについても、その分析視角は私たちが慣れ親しんでいるものである。そういう意味で、本書は、STS的な視点へのガイドとして、STSになじみのない人々へと対象を設定することによって成功を収めているといえるだろう。一つ一つのストーリーは、短くまとまっており、非常に読みやすく、魅力的である。そこでは、テクノロジーを取り巻く諸問題をめぐってSTS研究が切り開いてきた視野が、明瞭に提示される。その意味で、工学教育にこれから本格的に導入される技術倫理のテキストとしても、非常に適しているように思う。
 ただしここでは、そのそれぞれのストーリーについて解説をすることはしない。なによりも、各章とも、すぐに読み終えることができるし、その筋道もいたって明快である。読者にも、まずは本書を手にとって読み進めてもらうことを是非とも勧めたい。そのためにもここでは、いまだ記憶に新しいチャレンジャー号の爆発事故をめぐる問題が取り上げられている2章の議論を簡単に紹介することにしよう。
 2章では、打ち上げの直後に爆発し、テレビを通してその姿を見守っていた人々に衝撃をあたえた、チャレンジャー号の鮮明な記憶が呼び起こされる。チャレンジャー号の打ち上げは、なぜ、失敗したのだろうか。その原因として、事故後ただちに、固体ロケットブースター間の隙間をふさぐはずのOリングが、打ち上げ当日の寒さによって弾性を失い機能しなかったことが突き止められた。さらに、エンジニアたちが打ち上げ前夜にその危険性を指摘したにもかかわらず、NASAの経営陣はそのような警告を無視し、危険を承知しながらも経済的、政治的なプレッシャーのもとで打ち上げを強行していたことが判明した。そのような事態をめぐって、物理学者ファインマンが、氷水のなかにゴムを放り込み、低温下でゴムが弾力性を失う様子をテレビ上でわかりやすく提示して見せた実験は、科学的な判断が、経済的、政治的判断に敗れたことがチャレンジャー号爆発の原因だったのだというイメージを視聴者に鮮明に刻み込むことになった。しかし本書は、Oリングの開発と安全性の検証をめぐってチャレンジャー号の打ち上げまでになされてきた議論の経過を追いかけることで、事態は実はそのように単純なものではなかったことを明らかにする。そこで浮かび上がってくるのは、Oリングの危険性を指摘する技術的、科学的な判断の妥当性こそが問題の核心にあったということだ。ことの経過は、すなわち、技術的な見解の対立のなかで、危険性を指摘する側が、決定を覆すに足るだけの十分な証拠を持っていなかったということだった。問題は、政治的、経済的判断と技術的判断との対立という単純な図式に回収されるようなものではなかったのだ。
 かくして本章では、あたかも推理小説のようなスリリングなストーリーの展開をみせながら、爆発事故におけるOリング問題の本当の争点がどこにあるのかを明らかにしていく。さらにそれは、柿原泰氏が現代思想「サイエンス・スタディーズ」特集号(2001年8月)の論文でも指摘しているように、技術倫理というものが、落ち着きどころがはじめから想定された、いわば小学生の「道徳」の授業のようなものなのでは決してなく、よりグローバルな枠組みにおける問題の捉え返しが問われており、そして本格的な思考力が試されていることの、実に明快な例証事例となっているといえるだろう。

「専門性」の境界

 さらに、ファインマンによる、低温がOリングに与える影響についての実験は、もう一つの問題を提起している。その実験は、視聴者に対して、科学的な知見と経営的、政治的判断との対立というかたちで問題を把握するよう促すという効果をもっていた。そこでは、科学的分析が重視され、尊重されれば、事故は容易に避けられたのだ、という想定が持ち込まれている。しかし、繰り返しになるが、問題は、低温がOリングにどのように影響するのかについての科学的知見を持っていたか否か、というところにではなく、そのことが原因となって問題が引き起こされるのかどうか、そして引き起こされると信じるに足る理由を持っていたかどうか、にあったのだ。つまりそこで問われているのは、専門家による判断の妥当性はどのように承認されうるのか、専門性はいかにすれば適切に活用されうるのか、ということなのである。そして実を言えば、本書の全篇を通してつらぬかれているのは、科学者、技術者の「専門性」、かれらが提示する専門的な意見を、どのように受け止め、考えていくのか、という問題への視点にほかならない。本書の結論で、コリンズらは言う。「専門家としての専門家の発言は、当該の問題にその専門がぴったりと合っ ているときにのみ、私たちの判断を左右できる」。それゆえ、専門家は尊敬されるべきである。しかしそれは、無条件な尊敬であってはならない。というのも、「専門性は誤って利用されうるのだ」。本書の事例は、そのような認識にもとづき、専門性の境界が曖昧となるケースに焦点をあてていく。それらの事例の分析を通して、「その専門性が何を構成しているのか、また何に対して適用できるのか」が浮き彫りにされていくのである。
 ここであらためて本書の構成を振り返るならば、5章までの事例分析を通して、技術の持つ不安定さ、不確実さが炙り出されていく。たとえば1章では、湾岸戦争で「活躍」したパトリオット・ミサイルが、どの程度「成功」したのか、また迎撃対象であるスカッド・ミサイルにいかほどの割合で「命中」したのかをめぐって、それが一見、容易に回答可能な問題であるように見えながらも、実際には非常に大きな困難を抱えていることが提示される。なにをもってパトリオットの「成功」といえるのかについて、可能な規準は軍事的な判断からも技術的な判断からも多数ある。のみならず、かりにそれがスカッドミサイルの弾頭の撃墜というもっとも明確な、それゆえ技術的には一見もっとも確実に回答可能に見える定義を設けた場合でさえ、その結果を得るのはほとんど不可能なのだ。事実、そのような規準に対してなされたアメリカ政府当局による発表では、パトリオットに撃墜されたスカッドミサイルは、当初は45基中42基とされたものの、完全に信頼できるものとして評価される数値は徐々に9%へと下がり、さらにはわずか1基という、ある意味、衝撃的な評価までが提出された。というのも、測定のために理想的な条件を作り出せるような実験室のような環境を、テクノロジーが実際に利用される空間のなかで(しかもこのケースでは戦時下で)構築することは現実的にはほぼ不可能なのだ。
 それらの分析をとおして明らかになるのは、科学に基づいた技術としてのテクノロジーが、科学という堅固な土台にしっかりと基づいた、安定した確実な営みであるというイメージは、いまやそのままでは維持しえないという事実である。技術のもつ不確実さと不安定さをしっかりと見据えること。そのうえでこそ、テクノロジーをとりまく専門家の見解は、盲信によってではなく、健全なかたちでその信頼を再獲得できるのだ。
 そのうえで、6章、7章では、「非専門家の専門性」が争点にあがる。6章では、科学の公衆理解をめぐる議論において必読文献ともいえる、ブライアン・ウィンの諸論文における議論の骨格がわかりやすく提示される。1986年に起きたチェルノブイリ原発事故は、牧羊地域であったイギリスのカンブリア地方に死の灰を降らせた。6章では、死の灰が牧羊業にあたえる影響をめぐって、科学者たちの調査に基づいてなされた政府当局の対応と、それに対する牧羊農夫たちの反応に焦点があてられる。そこで明らかにされるのは、農夫たちが、牧羊の専門家として、かれらの長い経験を通して得ることのできた多様な知識、「知恵」のもつ価値と、それが科学者たちによってないがしろに扱われていった過程である。その綿密な分析は、専門性というものが「時には非正統的なルートでも獲得できる」(248ページ)とことを浮き彫りにしていく。そして7章では、牧羊農夫たち以上に積極的に、エイズ治療法の改善に大きく貢献していったエイズ患者たちの姿が描かれていく。彼らが、学会への出席や専門書の購読、専門家からの学習などによって医学の専門的知識を習得し、自分たちの経験を科学者たちが理解できるように翻訳していくことを通して、権威ある科学者たちを説得し、治療法の開発に大きな転換をもたらしていく姿は、感動的ですらある。
 そして本書が、そのような事例の分析をとおして追求していくのは、「通常の意味では専門家とは言えないようなところで見出される専門性を利用」(8ページ)することによって、専門性を再構築していく道である。それは、従来の意味での専門性を本当の意味で有効に活用していくものであり、STS研究にとって実に重要な課題だといえるだろう。

専門性の再構築のために

 以上で論じてきたように、本書のもつ意義は、テクノロジーを取り巻く神秘性のベールを取り去り、専門家や専門的知識に対する正しい期待を培っていくための、有用な材料を一般読者に提供しているところにある。しかし、当然のことながら、本書はあくまで出発点にすぎない。専門性を再構築していくにあたって、論じられるべき問題は数多くある。そこで最後に、本書を読んで評者が気がついた点、不十分に感じられた点について、3点ほど指摘したい。
 第一に、ピンチ自身も7章の最後で示唆していることだが、非専門家が専門家のアリーナに介入するそのあり方について、本書の事例はあまりに専門家の側に引きつけられたものとなっている。治療法の改善に介入していったエイズ患者たちのあいだでは、「非専門家のなかの専門家」と「正真正銘の非専門家」のあいだに亀裂と緊張が生じていった。エイズ治療法の改善に具体的な貢献をなしえたのは、科学者に対して専門用語を駆使しながら議論を展開できる、「非専門家のなかの専門家」だった。なるほど、彼らの活動は、その背後にいた大多数の「正真正銘の非専門家」に支えられてこそ可能となった、ということもできるだろう。エイズ患者たちの想いや経験を、科学者たちにつたえるために、彼らは媒介者としての役割を担ったにすぎないという見方もできるだろう。にもかかわらず、治療法の開発へと介入していく実際の現場で問題を設定することを通して、主導的な役割を担っていったのは、やはり「非専門家のなかの専門家」だったのだ。しかし、非専門家が専門家のアリーナに介入していく方法は、そのようなかたちでしかありえないのだろうか。そうではないだろう。たとえば、訳者あとがきで平川氏が言及している「サイエンス・ショップ」や「コミュニティ・ベイスト・リサーチ」のような取り組みは、むしろ非専門家の生活の場に、専門家を巻き込んでいくものだといえるだろう。そのような取り組みをも見据えた上で、専門性の再構築にあたって、多様な可能性が探られていく必要がある。その点を、はじめに強調しておきたい。
 第二に、広義の技術そのもののなかにもまた、専門性の再構築において重要な論点を形作るような、いくつもの潜在的要因を見出すことができることが指摘できる。はじめに述べたように、本書で取り上げられているのは、基本的に、科学に基づいたテクノロジーである。より正確に言うならば、技術のうちの科学を基盤とした成分に焦点があてられている。しかし、技術的知識は実際のところ、かなりの部分、直観的、経験的判断に支えられている。長い職業的経験を通して蓄積された実地の判断がものをいう、むしろ「技能」とでも呼ばれるべき領域が、技術的知識(あるいはそもそも、知識という言い方が適切なのかどうかは分からないが)の安定性の基盤となっているのだ。コリンズらが序論で、「技術も人間が経験を深め能力を養うにつれて、確実に信頼性を高めていくものである」というとき、それは、テクノロジーの基盤としての科学的知識の安定性が増した結果というよりも、そのような科学的知識を利用するための「技能」の蓄積が鍵となっているのである。その点をめぐって、近年における数多くの技術的失敗の原因は、そのような技能としての技術の軽視と、科学的知識の偏重にあるというファーガソンの指摘(『技術屋の心眼』、平凡社、1995年)は、技術における専門性のありかたを考えていく上でも重要な問題を提起しているように思われる。技術者の専門性もまた、本書で取り上げられているような、その基盤をもっぱら科学的知識に依拠するのとはちがったかたちで構築されうるのだ。そしてそこでは、非専門家の日常的経験も、また異なったかたちで専門性の構築に組み込まれていくことだろう。あくまで「科学知識の歴史とその社会学」(3ページ)に依拠する本書の議論では、残念ながらそのような可能性についての配慮は見えてこないが、しかし、技術をめぐって専門性を再構築していく道をさぐっていくうえで、それは欠かすことのできない論点であるように思われる。
 そして最後に、本書の一番大きな欠点として、本書でとりあげられている事例について、読者がみずから考えるための文献ガイドが欠けていることをあげておこう。本書の醍醐味は、そこでの議論の「結論」にあるのではなく、むしろ一定の結論にいたるまでの過程にある。テクノロジーをめぐる問題を、そのすべてを専門家に委ね、彼らの判断に無条件に依拠するのではなく、そのような問題を専門家たちのアリーナから取り戻し、広く議論に開いていくことが本書の核心をなしている。その過程であらためて、専門家に対する信頼を健全なかたちで再構築していくことが、専門性の再構築のコアをなす。だとするならば、本書での解釈を十分に掘り下げ、批判的な検討を促すための道具を読者に提供することは、本書の議論を真の意味で有効なものたらしめるだろう。STS研究者がテクノロジーをめぐる専門性の妥当性を問題にするのと同様に、そのような取り組みもがまたその妥当性を問われるのでなければ、STS研究は結局のところ、もうひとつの近寄りがたい専門領域を形成してしまうにすぎない。本書の目的がそのようなところにないことは、あまりに明らかである。培われるべきは、STS研究に対する「正当な期待」である。だとするならば、巻末に掲げらた参考文献リストにとどまらずに、本書の分析に対する批判的な検討を読者に促すような、各章のそれぞれの事例研究に対応したブックガイド、文献紹介があってしかるべきだったのではないだろうか。さらには、参考文献リストを一瞥すればわかるように、そこにあがっている文献で邦訳のあるものは非常に少ない。そうである以上、本書の事例について読者が自分の力でさらに考えていくための、日本語で書かれた文献へのガイドをつけるなどの配慮が、是非ともほしかったところである。
 しかし、いずれにせよ、専門家に対する「正当な期待」を培い、科学者、技術者とそれ以外の人々とのあいだで実りある関係を築きあげていく上で、本書は重要な一冊であることに間違いはない。是非とも一読を勧めたい。






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