一高校理科教員にとってのSTS
八巻俊憲  (福島県立須賀川高等学校)




 ここ数十年間の間に、STSが生まれ、一定の発展を見た。STSN.J.を通してその発展の一面をかいまみることができ、科学についての客観的な知見や科学技術文明の背景についての理解が深まり、理科教師としてのアイデンティティの追究に大変役立っている。
 N.J.の会員になってから約十年を経たのを機に、これまでSTSから得たものについて私見を述べてみたい。
 始めに以下の論旨の前提として、筆者の受けた学校教育について述べておきたい。
 まず、高等学校で学んだ理数科のカリキュラムには「世界史」がなかった。大学受験にとって邪魔な文系の科目を排除したためであることはほぼ明白だが、「世界史」が理科=西洋科学を学ぶ基盤となる知識を与えるものとしてはまったく認識されていなかったことが伺える。従ってこれまで得た世界史の知識は、中学校での限られたものと、一般の歴史書で読みかじったものしかない。大学初年の教養部で履修した「世界史」の講義の内容は、教官の好みによって、東洋史の、しかもアヘン戦争に関する部分だけだった。
 また、高校には西洋思想史を扱う「倫理」の単位があったが、これは「日本史」の授業に振り替えられてしまったため、西洋哲学の基礎にもほとんど触れなかったことになる。悔し紛れに言えば、その分、西洋中心の歴史観からは解放されたというメリットはあるが。
 筆者は大学は理学部ではなく工学部に進んだので、理学部や教育学部出身者が通常と思われる一般の理科教員とは、視点にややずれがあるかも知れない。それがSTSに関わる原因の一部になったかも知れない。しかし、理科教師が科学についての歴史的あるいは社会学的視点に疎いという点については、理学部や教育学部を出てもそうは変わらないのではあるまいか。
 因みに、教員養成課程の選択科目の中に「科学史」1単位があって興味半分に履修したが、理学部の教室で行われたその授業の内容は、ある科学哲学者のドイツ語原文の一部を読むというもので、科学史のなんたるかや、科学哲学との関係、なぜそのような授業が科学史の授業なのかもわからないままで終わった。それも必修科目ではないので、履修した学生はほんの一部であった。
 これらのことは、高校に限らず、科学教育に携わる者の多くが、科学論と呼ばれる領域の知見にほとんどまったく触れずに科学を教える立場になっていることを意味している。
 したがって筆者も、STSに出会うまで、理科教育の対象である科学とはいったい何であるのか、理科教師とはいったい何者であるのかについて考えたことがなかった。理科教育の研究会の場などでも、そのようなことが話題になった経験はまったくない。これは、科学そのものを客観化した視点をもつ科学論という道具を持たないためであることはほぼ明らかだ。
 さて、筆者を含めほとんどの教師が理科教員になった動機として考えられるのは、自然や科学が好きであるとか、学校の理数系の教科科目が得意であった、といった個人的なものであり、今少し公的な使命感に基づく動機があるとすれば、そのようなすばらしい自然や科学の知識を後進に共有させたいといったことであろう。それ以外の理由で、たとえば科学技術文明はこのままでは立ち行かないから、新しい科学観を普及させるために理科の教員になった、などというケースは考えにくい。むしろ科学が、人間の最も純粋な精神活動である真理追究の究極の形であり、それを子どもたちに教えることは疑問の余地のない善であり、そのような善行に身を捧げ、自然と科学の魅力を伝える伝道師になることは、神の愛を教える宗教の伝道師になるのと同じく、使命感と満足感と優越感を満たすべきものであったろう。
 このような理科教師にとって、かのマートンの5つの規範=CUDOS(公有性、普遍性、無私性、独創性、懐疑主義;ここではザイマン1)に従って、4つではなく5つの規範説を採った)は、科学の理想を表す徳目として自然に受け入れられるだろう。CUDOSは、誰もが理科を習う際に、直接ではないにせよ、漠然とながら科学の輝かしい特徴として刷り込まれた基本的イメージではなかったろうか。

 しかし、この半世紀に科学技術の状況は一変した。そしてSTSは、科学技術のイメージを一変させた。20世紀前半の科学のイメージ−たぶん多くの理科教師が共有している−と、後半の科学のあり方の間には大きなギャップができた。
 世界史を習っていなかった筆者にとって、科学史は、過去の科学のイメージをも変えた。村上陽一郎氏の提唱する「聖俗革命」は、神学の側にいて「聖」の衣をまとっていた「前科学」が還俗して「科学」となった意と解釈できるが、むしろ日本人の立場から見れば、ある意味で俗化してしまった「神」の知から離れて新たな「聖」なる知である「科学」が生まれたのだともとれる。そのように考えられてきたことは、明治維新以降、富国強兵や経済成長のために科学が一貫して用いられてきた政治的な思惑とは別に、学校教育ではかなりの程度価値中立的・絶対的な知のあり方として科学を教えるスタンスが維持され続けてきた史実2)からも言えると思う。

 ところが20世紀後半、その「聖」なる科学は「俗」化の一途を辿ってきた。例えばマンハッタン計画以後、もっとも純粋で「聖」なるはずの原子論研究の成果が、あっという間にその後の人類の喉元に突きつけ続ける刃と化した。その後の冷戦体制が、子どもの夢をかきたてる宇宙開発技術の発端となったり、エレクトロニクスをはじめ商業的にはアメニティ実現を標榜する技術のほとんどが、戦争兵器技術開発の副産物であったなどということが小中学校や高校の段階で知らされていたら、現在の科学者や技術者、理科教師は同じ進路をたどったであろうか?
 それから数十年間、科学は高度経済成長を支えてきた一方で、問題をまき散らし、環境に対する負担を蓄積していった。それでもまだ、「一般市民」−この言葉は、科学によって知識やモノを生産する立場にはない理科教師と同時に自分の専門分野以外の問題に関する他の専門家も含むから、常にほとんどの市民のことである−は、「専門家」を基本的に信頼し期待していた。
 しかし、専門家が、そして真実すなわち誠実の本家であるはずの科学知識が、素人目にも明らかな問題に無力で、結果的に体制の側に有利にはたらく政治性をおびていることが次第に明らかになった。それを劇的に示したのが、「水俣病」であった。しかし現在、高校社会科−文系科目とされる−で教えられる「水俣病」の教科書に、科学論の知見がいくらかでも反映されているだろうか。
 さらに、20世紀も終盤の1995年には、一カルト教団が、科学エリートを取り込んで科学知識を悪用するという事件が起こった。政府レベルならすでに行ってきたプロセスを私的に適用しただけともいえないこともないこの例を見ると、宗教団体とはいいながら異常に「俗」化した集団であるこのカルトと、科学がいとも簡単に結びついてしまったことから、科学の「俗」化は頂点に達したといえるのではないか。
 この後にも、ヒトゲノムの解読結果を特許化するという、公有性や無私性に反して科学知識を私有化する動きがアメリカから生じるなど、世界における科学のCUDOS(kudos=栄誉)は完全に地に落ちてしまった。
 これでは、科学を学ぶ生徒たちから見て、科学や技術の専門家たちも、テレビの視聴者の目を奪う「超能力者」や、詐欺師が横行する金融や経済の実業家たちとさして変わらないことになってしまう。

 こうしてマートンの規範は、単に実際には存在するかどうかわからない理想のアイドル科学者像のキャッチコピーとなってしまった。通常、中等教育の進路指導の場では、生徒が、歌手やタレントなどのアイドルを志向した場合、もっとよく現実を見るべきだとたしなめるのが常であることと比較すると、理科の教師が実現性の薄い科学のアイドル像だけを伝えたとしたら問題があったことになる。その結果社会に対してあまりにも無関心な科学者が育ったかも知れないからである。そうだとすれば、現行の学習指導要領では必須科目ともなっている世界史を欠いた理数科のカリキュラムは、大学進学率追求という社会的圧力の中で、科学を担う立場に立つ人間の教養を後退させてきた一例ということになろう。

 現在、中等教育における理科は、以前と違った意味での教養の一部となっている。日本は明治維新以来、実学の原動力として科学を導入したが、同時にマートン的なエトスも自然に吸収した。しかし、それによって育てられた科学者は、結局政治にも資本主義にも、そして環境問題にも無力であった。ザイマンの提出した新しい規範=PLACE(所有的、局所的、権威主義的、受託的、専門的)は、科学活動がいかに社会に依存的であるか、科学者がいかに社会に対して主体性を欠いた存在かを示している。
 そして理科教師も同様にまた社会に対して十分依存的、非主体的である確率が高い。半世紀前の科学の「神聖」なイメージがその原因だとすれば、科学がその光背を失った今、科学者も理科教師もその性向を独立的、主体的なそれに変えねばならない。科学や社会に対して、真の意味での客観的視点を持ちうる知的基盤を持たねばならない。STSは、その新しい基盤を構築するという役割を負っているのではないだろうか、というのが、現時点での一理科教師の観測である。


 

1)John Ziman "An introduction to science studies" p.86, Cambridge University Press, 1984
2)吉本市「理科教育序説」(2部 わが国理科教育の歴史)培風館、1967





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