STS Network Japan 2000 春のシンポジウム
『エネルギー政策をリスク論から考える
  −JCO 臨界事故の再検証と「不安」の評価−』報告

春日 匠(京都大学)



日時:3 月26日(日)13:00-17:00(開場12:30)
会場:東京大学先端科学技術研究センター新4号館2階講堂


パネラー:
 飯田哲也氏(日本総合研究所)
 池田三郎氏(筑波大学社会工学系)
 林衛氏(岩波書店『科学』編集部)
 浅見恵司氏・重松真由美氏(東京工業大学)

コメンテーター:
 野村元成氏(信州大)、平川秀幸氏(ICU)


1.
 2000年3月26日に行われたSTS network Japan春のシンポジウム『エネルギー政策をリスク論から考える:JCO臨界事故の再検証と「不安」の評価』は約60名の参加者を数え、おそらくSTSNJのシンポジウムとしては過去最高規模の参加者を集めた。この中には、日常的な参加者である研究者、中高の教員、関係省庁の官僚といった人々のみでなく、広く大学の学部生、メディアや市民運動関係の方と見られる人々もおり、この意味でもSTSNJの活動の幅を広げられたことと思う。なにより、常盤大の松原さんのご尽力もあり、東海村からわざわざ駆けつけてくださった方々の貴重なご意見を伺えたことは最大の成果の一つであった。東海村からの参加者の方々の感想も本ニューズレターに掲載することができた。こうした形で多様な意見を集積させ、論点を洗い出すことは本ネットワークにとって極めて重要な役割であるので、今後もご意見などをお寄せいただければニューズレターなどで取り上げていきたいと考えている。
 なお、筆者のここでの役割はシンポジウムの報告ということになるが、当日の講演そのものについては、テープをおこしたものが今年度に発刊予定のイヤーブックに掲載予定であるので、ここでは概要を示すにとどめ、このシンポジウムまでの経緯と当日の論点についての報告をさせていただくこととする。一つには各講演者の論点が極めて多岐にわたり、またそれぞれの論点について短い時間で言葉を尽くしてくださったので、ここで問題について精通しているわけでもない筆者が問題を安易に解説することで思わぬ誤解を与えることを恐れるためである。特に飯田氏については『北欧のエネルギーデモクラシー』(飯田哲也 2000 新評論)という労作を発表されたばかりであり、そちらも併せてご参照いただきたい。
 99年9月の東海村におけるJCO臨界事故は日本初の臨界事故であり、しかもそれが民間施設で、必ずしも専門的知識が十分といえない作業員による作業中に行われたという点で衝撃的な出来事であった。また、当初はこの作業に従事した作業員がマニュアルの手順を無視したことが原因であると見られていたが、結果的には会社や国が作業の効率化のためにマニュアルを無視することを事実上マニュアル化していたことが発覚し、ずさんな管理体制を露呈した。
 また、事故直後の関係機関の対応もかみ合わない側面もあり、地域住民をはじめとする人々の不安をあおるものであった点も批判される。ただ、関係省庁の情報開示はこれまでの事故に比べ迅速であった[# これまでは国の機関の事故であったが、今回は民間企業の事故であったという事実が大きいと思われるが…]。ただし、特に大手マスコミ各社はこれを十分に生かし切れたとはいえず、特に事故の規模の評価や水蒸気爆発の有無などの深刻な情報について、海外メディアの先走り(結果的には一部誤報があったと思われる)と国内メディアの沈黙の間で、情報の欠乏に悩んだ人々も多かったと思う。今回のシンポジウムでは扱われなかったが、このマスメディアの情報不足を事実上補ったのがインターネットで、いくつかの有名掲示板などで専門用語に関する質疑応答やメディアの速報に関する解説などが頻繁に行われた。インターネット情報の真偽を判断する責任が受け手側にそのまま課される点に強い問題を孕むとはいえ、今回のような事故のさいのネットワークの重要性が再確認される形となったのも確かである。また皮肉なことながら、この機会に原子力資料情報室 <http://www.jca.ax.apc.org/cnic/> などの市民運動系情報の重要性を再確認したり初めて認知した国民も多かったのではないだろうか。
 さて、わが STS Network Japan の会員の間でも事故直後からメーリングリストや私信、時には電話などで活発な議論が行われた。Network Japan会員の間でこの時問題になったのは、事実の把握の重要性もさることながら、目の前で「おそらく(自分にとって/社会にとって)とてつもなく重要なことが起きているのに」それについての十分な情報がなく、あるいはありすぎて真偽を判断し得ず、かつ重要性や情報量に比して主体的に行える対処法の選択肢があまりにも少なく、また個々の選択肢が無力であるという事実にどう対処するかという問題であった[#まぁ、今考えるとそうだったってことで、当時はもっと混乱していたのだが…]。これには、一部で東海村の住民や作物が被った「風評被害」にどう対処するか、といった問題も含まれるだろう。そのような経緯で、 STS Network Japan としての事件への対処として、2000年春のシンポジウムでこの問題に対処することが決まったわけだが、その中心的な課題として、社会がリスクを認知し、それへの対応を決定していくさいのコミュニケーション、いわゆるリスク・コミュニケーションの問題としてこの事件を扱うという焦点が決定された。JCO事故の再検証を唱ったシンポジウムや研究会は大は朝日新聞主催の『21世紀のエネルギー選択』(1月25日)から身近なところでは京都女子大の特別講座(10月16日)、「科学・技術と社会の会」の定例会(11月11日)など、数多く見られたが、リスク問題というメタな視点を提示することで、NJの役割を明確にできるかと考えた次第である。


2.
 かくて、2000年春のシンポジウムは「原子力」という、科学・技術を巡る問題群のなかで最もホットで論争的な事象の一つを扱うことになった。題して『エネルギー政策をリスク論から考える : JCO臨界事故の再検証と「不安」の評価』(3月26日 於東京大学先端科学技術研究センター)である。
 最初のパネラーは年末以降シンポジウムやマスコミに出突っ張りの飯田哲也氏である。飯田氏は日本総研主任研究員兼スウェーデンのルンド大客員研究員であり、かつ自然エネルギーの促進、普及につとめる市民運動にも携わってこられた。さらにシンポジウムにあらわれた氏には「自然エネルギー.コム」 <http://www.greenenergy-j.com/> 代表取締役社長という新たな肩書きが加わっており、企画者一同度肝を抜かれた。まさに八面六臂の大活躍中である。
 飯田氏の発表は主にポスト原子力は可能か、というテーマに収れんした。実は、JCO事故について相当量の議論を用意してくださっていたのだが、これについては時間の都合等もあり、会場ではあまり聞くことができなかった。
 ただし、原子力を考える以上、政策論やリスク論の様相を帯びるのはもちろんである。飯田氏が最も重視した論点は、氏の言葉で「エネルギー政策の立体化」というものである。冷戦期の原子力は国家規模のビッグ・プロジェクトであり、エネルギー政策というのは中央省庁の専権事項であった。そうした体制は近年、エネルギー危機や環境問題、市民運動の強化など様々な理由から解体され、分散している。この状況を「政府」「市場」「地域」の三要素に分け、現在主導的な地位にいる北欧の事例などから分析した。たとえば、「政府」要素として、環境負荷の少ない自然エネルギー導入を図るため、化石燃料に課税したり、エネルギー供給が右肩下がりである程度の経済成長を維持するようなプランが立案されると言うことがある。また、「市場」要素として、電力の販売が自由化されると、膨大な発電量を常時維持しなければならない原発は電力価格が極めて安い早朝などにも販売をやめられれず、一方で比較的コントロールが容易な風力などは電力価格が高い時間帯に集中的に発電できるため、管理コストなどの面で有利であるという側面が指摘された。また、現状では自然エネルギーは若干割高でも、そのぶんの追加コストを払った人には「グリーン証書」と呼ばれるその旨の証明書を発行するなどして付加価値をつけ、市場競争力を強化すると言った方策も紹介された。
 北欧をはじめとする世界のこういった状況に比して、我が国では決定プロセスは不透明で非民主的であるという。ただ、国会内に自然エネルギー促進連盟が結成され、超党派で約260名の議員が参加していることや、審議会などで飯田氏自身を始めとするNPO関係者も発言が求められ始めている現状も紹介された。
 飯田氏の論調は、基本的にはこういったダウンサイジングと決定プロセスの自由化、民主化によって現在の巨大プロジェクトとしての発電が抱え込んでしまっている病理を克服できるし、するべきだ、というものであった。エネルギー問題というと、巨大原発を造るか、テレビやオーディオの待機電力をちまちまと節約するか、というあまり心楽しくない選択肢しか示されていない我々日本人にとっては、かなり未来に希望が持てる見解であるには違いない。ただし、すべての地域でこういったダウンサイジングや民主化がうまくいくためには、克服すべき技術的、政策的課題が多々あることは論を待たない。自然エネルギー体制の確立は現在過疎化して、それこそ原発誘致でしか産業を興せないような地域が主体的なコントロールに置くことのできる代替政策であるとは言えそうであるが、それが「すべての」過疎化地域に当てはまるとは限らないだろう。また、こういった楽観性が今流行の単純な市場主義と自己責任論に還元されてしまうことの危険も指摘されなければならないだろう。
 次に、日本リスク研究学会の池田三郎氏にご講演いただいた。池田氏は、今後、エネルギー政策もリスク論の重要な課題であるが、まだリスク論自体が新しい学問分野であることもあり、これまでのところ十分な研究が行われていない点を指摘した。
 リスク論という言葉は一般にはまだまだ馴染みのない言葉だと考えられるが、STS関係者には重要な言葉になりつつあるだろう。簡単に述べれば、これまでの実証主義的なリスク研究が定量的に「計測可能」なリスクの問題に焦点を当て、一般の漠然とした「不安」を心理的バイアスに起因する「非合理」と退けてきた。これに対し、「予防原則」「生産者危険」などの概念設定から議論をおこし、(これまでは技術やプロジェクトの単なる受益者とされてきた)一般の人々の認知をくみ取る中からこれまでは見過ごされてきたようなリスクの存在を洗い出していこうというのが新しいタイプのリスク論である。
 池田氏は大まかに事象を「結果予測の確実性」と「望ましくない結果についてのコンセンサス」の二つの要素で四つに切り分けて、それらがそろっているときに初めて定量的なリスク計測が可能で、それらが原理的に難しいときにリスク論的知見が有効性を増すと論じられた。また、リスク事象の性格を確率と被害の大きさを「大、小、未知」に場合分けすると、対処法を含めておおむねギリシャ神話にその類型が見られるというドイツのリスク論学者Rennの指摘は、歴史という意味でも認識論という意味でも興味深く、それらの分野における実践的な研究の必要性を示唆するものだろう。
 岩波『科学』編集部の林衛氏からは、核燃料サイクル開発機構の『わが国における高レベル放射性廃棄物地層処分の技術的信頼性』について、北米などの安定大陸の中で「安定している」ことと、変動帯に位置する日本の中で「安定している」ということ、まったくスパンの違う安定性が混同されているなどの「ごまかし」ともとれる広報の問題点が指摘された。「この資料を一般の読者がどう解釈するだろうか」という観点からの考察は、一線でメディアに関わる編集者ならではの鋭い指摘であるかもしれない。
 また、こういった議論に参加しようとすると、膨大に刊行されている資料を「読んでから来てください」という形で門前払いされてしまうことの問題点も指摘された。
 ここで林氏が強調したのが、事実関係の追求の甘さにもまして、行政側が企画するイベントが、司会者やゲストに「始まる前は不安でしたが、だいぶ安心してきました」と語らせるなど、説得型のコミュニケーションの戦略がとられていることの危険である。つまるところ、イベントに「不安を抱えたしろうとlayperson」が参加していたら、その人を説得するのではなく、その人が代表するであろう「世間一般」の抱える「不安」を洗い出し、政策や科学に還元するようなコミュニケーションが求められているのである。この意味で、ここでも重要なのは「説得型のコミュニケーション」からリスク・コミュニケーションへの移行であると論じられた。
 また、東工大の学部生であり、今回の事故に関して鋭い問題意識を持って、現地での聞き取り調査にも参加することになった浅見恵司氏と重松真由美氏から、現地を見た率直な感想を聞くことができた。村の施設や道路などが妙に立派であった点、「ようこそ原子力の町東海村へ」といった看板から「原子力の」の部分が消された、不安を感じているがそれを表に出すことにためらいを感じる人々がいた、などの報告は迫真的であった。しかし、質疑応答の段階では、東海村からの参加者からの、そういった報道も多々見られたが、じっさい自分の周りでそんなことを言っている人は居なくて、そういった話を誰に聞いたのか理解できない、という指摘もなされた。このあたりは観察者側ないし現地側に先入観があるのか、あるいはインタビュー対象が偏っているのか、もしくは「議論」や「雰囲気」などで指し示す対象が違うのか、今後考察する必要があるだろう。
 最後に、STSNJのメンバーから、野村元成氏(信州大)と平川秀幸氏(ICU)が総括のコメントを行った。…といいたいところであるが、長く原子力の問題を追求している野村氏からは、もんじゅ訴訟結果の問題点についての解説があり、アメリカ視察から帰ったばかりの平川氏からはアメリカの行政や審議会システムについての報告と日米の問題点の指摘があり、まとめと言うよりは論点の拡大が行われた。論点の洗い出しというSTSNJのシンポジウムの趣旨にはかなうものの、司会は大弱りである。
 コメントの主要な論点として平川氏が、「予防原則」がこれまで政治的な主体的参加を奪われてきた人々のエンパワーメントの道具として使える点が指摘されたことをあげられよう。ただし、池田氏はそのあと平川氏の議論や「開発者側に責任を負わせるような予防原則」という考え方が、安易に「非合理性」の許容になることへの危機感を表明した。今後議論が必要な点である。
 このあたりは筆者としては(会場では諸般の事情で(笑)コメントしそこねたのだが)、厳密に言えば問題を議論の対象にする(アジェンダ・セッティング)の段階、議論の段階、コンセンサス形成の段階における方法論を吟味することで回避できるものではないかと思われる。逆に言えば、リスク・コミュニケーションが、池田氏の言うように1)専門家が見落としてしまう論点を見つけだすことや、2)政策家や学者は集団としてのリスクや利益に目がいきがちだが、リスク・コミュニケーションによって個人や下位集団の隠蔽された利益を洗い出すことと、「しろうと」のエンパワーメントすることが接合している限りにおいてその議論は十分な「合理性」を持つのであり、「合理/非合理」といった先験的な区分を設定する必要はなく、むしろそういったことは有害である、と論じることができよう。[#このあたり、まず池田氏の講演をいただいて基礎的な概念を詰めてから、エネルギー政策に関する問題が現状でどの程度克服されうるかを、飯田氏の講演を伺いながら検証する、というのが穏当な手順であったかもしれない。事務方として若干の反省を感じるしだいである。]
 主催者側が「まとめる」ことを放棄しているにもかかわらず(あるいは放棄しているからこそ?)質疑応答については会場から積極的な参加が見られた。特に、概念装置として「認知が原理的に不可能あるいはごく困難なリスク」を「対象化」する「科学」というのはいろいろな意味で語義矛盾ではないか、といった理論レベルの質問から、東海村からの参加者の、当事者でもないものが当事者を代弁することに対する違和感といらだちの表明まで、極めて多岐に富む点が、今回のシンポジウムの特徴であろう。
 簡単にまとめると、
 ・決定プロセスの民主化、ダウンサイジングによる政治への一般参加をただすこととその問題。
 ・リスク・コミュニケーション、不確実性の必要性と「不当なもの」をどう切り分けるかのバランスの問題、あるいは知の正当性やチェックアンドバランスの維持の問題。
 ・現地の当事者と専門家など、多様な利益を持つ関係者がどう対話するか。
 などの問題が、相互に絡み合いつつ提示された、ということになるだろう。このあたり、昨年の春のシンポジウム『グローバル・サイエンス、ナショナル・サイエンス、ローカル・サイエンス』や『工学教育改革とSTSの可能性』などとも絡み合いつつ、それらに比べて極めて実践的な議論ができたかと思う。これまでとはいささか毛色の変わった、何度か強調しているように極めて論争的なテーマであることもあって、パネラーのみなさまや実際の準備を指揮した夏目さんなどには多大な苦労があったことと思うが、今後もこういった挑戦的なシンポジウムを試みるべきであるという確信も得られた。

 最後になりますが、パネラーのみなさま、会場にいらっしゃったみなさま(特に東海村からの参加者の方やマスコミ、省庁関係の方など)に多大な感謝を表明し、不十分ではありますが報告に代えたいと思います。



[戻る]

Copyright (C) 2000, STS Network Japan
All rights reserved
For More Information Contact office@stsnj.org