再び原子力「平和利用」を問う
―JCO事故から一年に想う―
安孫子誠也(聖隷クリストファー看護大学)
E-Mail: abiko@ceres.dti.ne.jp


 冷戦は、広島に始まり、チェルノブイリに終わったと言われる。冷戦が原子力利用と表裏一体のものであったことは、歴史を振り返ってみれば明らかなことである。核分裂理論の基礎を構築し、マンハッタン計画にも深く関わっていたニールス・ボーアが、戦後の核軍拡競争と東西冷戦を予測して、それを防止すべくあらゆる機会を捉えて奔走したことはよく知られている(注1)。また、広島・長崎への原爆投下が、戦争を早期に解決して米兵の損失を防ぐための措置であったとする米軍の説明にもかかわらず、実際には戦後を見据えた対ソ戦略であったことは多くの人々が指摘してきたところである。さらに、ソ連崩壊がチェルノブイリ原子炉事故にその淵源をもっていたことも、論を待たないであろう。
 冷戦や原子力利用は、我がSTSの成立にも深く関わっている。広島・長崎の惨劇が、科学批判や反科学思想をどれほど助長したかについても、識者の意見の一致するところである。原爆投下、核実験、核関連施設の事故などが、人々に、科学・技術の暴走をこのままに放置してはならない、科学研究・技術開発を市民コントロールの許に置かねばならないとする考えをもたらし、それがSTSの教育・研究へと導いたのではなかっただろうか。無論、環境汚染その他の要因も重要ではあった。しかしながら、原子力ほどに人々を恐怖のどん底に突き落としたものは他になかったのである。
 昨年、JCO臨界事故の直後に、筆者はこのような冷戦と原子力利用、あるいは原爆と原発の間の密接な関連性に注意を促すべく、「改めて原子力「平和利用」を問う―即発臨界と原爆」という論考をこのNews Letter 誌上に発表した(注2)。しかしながら、原爆と原発の間の関連性や、原子力と他の産業技術との間の根本的な違いについて、充分な理解が得られるには至らなかったように思われる。そのことは、野村元成氏による拙論への批判(注3)などからも窺えるところである。
 筆者が、冷戦と原子力利用のあいだの密接な関連性に気付いたのは、冷戦の終結とともに欧州各国が次々に原子力から撤退していった理由を考えたことが切っ掛けであった。しかし、よく調べてみると、1953年国連総会におけるアイゼンハウアーの「アトム・フォー・ピース」演説そのものが冷戦戦略以外の何物でもなかったことが分かるのである。それを示すために、簡単に原子炉開発の歴史を振り返ってみよう(注4)
 よく知られているように、最初の原子炉は長崎型原爆作成のためのプルトニウム生産炉であり、これが今日の高速増殖炉の原型となった。一方、米海軍からは潜水艦推進用の小型原子炉の開発が求められ、これが今日の軽水炉の原型となった。戦争が終わると、発電用原子炉が求められたが、米国ではウラン燃料枯渇対策と軍事用のプルトニウム生産を兼ねた高速・中速の増殖炉(あるいは二重目的炉)の開発のみが優先され、機密保持が厳重になされていた。ところが、1950年頃になると、ソ連、英国、フランス、カナダ、ノルウエー、オランダなどで相次いで原子炉の建設がなされ、米国の優位が脅かされるとともに機密保持の意味合いが薄れた。そこで、発電用原子炉分野における米国のリーダーシップを維持すべく、1953年5月に米原子力委員会によって原子力法改正提案がなされた。それは同委員会によるそれまでの原子炉独占・核分裂物質独占・技術情報独占を緩和し、発電用原子炉の開発を核兵器開発から切り離して民間へ開放するというものであった。それと同時に、潜水艦推進用の軽水炉を大型化した発電用原子炉の建設計画を発表した。こうして、それまでの軍事目的を兼ねた増殖炉開発一辺倒から離脱し、軽水炉開発への道が開かれたのであった。
 アイゼンハウアーによる1953年12月の「アトム・フォー・ピース」国連演説は、このような情勢のもとでなされたものではあったのだが、この演説内容をより大きく規定していたのは、むしろその前年におけるソ連による水爆実験の成功なのであった。
 この演説における平和利用推進提案は次のような内容であった。すなわち、「主要関係各国政府が慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、ウランと核分裂物質を、国連の支援で設立される国際原子力機関に供出し、今後も供出を続ける」とし、さらに次のような説明が付け加えられた:「この提案は、腹立たしさや相互の不信を招き易い、世界的な査察管理制度を作らずに実施できる」「国際原子力機関の重要な責任は、核分裂物質を平和的な利用目的に使う方法を工夫することであろう。たとえば、農業、医療への応用や、電気の不足する地域での発電など。」
 この提案は、各国が軍事用に保管している核分裂物質の一部を平和目的のために供出するという意味で軍縮提案となってはいるのだが、問題なのは査察管理制度を不必要だとしている点である。査察管理制度の目的は、供出核分裂物質の軍事転用の防止であるが、それを不必要だとしていることは、米国が他国を核武装させる意図があったという解釈が成り立つのである。この解釈は、その前年におけるソ連の水爆実験成功という事実に符合し、さらにこの翌年におけるNATOによる対ソ核武装包囲網構築の決定とも合致している。
 我が国における原子力利用具体化の第一歩は、このような情勢のもと1954年3月の国会で成立した原子力予算とともに踏み出された。日本学術会議は、同年4月に公開・民主・自主の平和三原則を求める「原子力に関する平和声明」を発表し、この三原則は1955年12月成立の原子力基本法に盛り込まれた。しかしながら、我が国の原子力開発はこの三原則に基づいて進められたわけではなかった。日本の産業界は、米国製濃縮ウラン軽水炉導入の路線を選択し、それとともに濃縮ウランの対米依存が始まった。これに抗議して、湯川秀樹が三原則支持の立場から原子力委員を辞職したのは有名な事実である。
このような経緯から、我が国の原子力開発もまた、対ソ包囲網の一環として踏み出されたという解釈が可能になるのである。我が国が核武装をしたという事実はなかったのではあるが、我が国における原子力開発はソ連を脅かすに足るものであったと考えられる。このような秘められた軍事的目的の影は、高速増殖炉路線への執着、原子力関連施設での事故の隠蔽、放射性廃棄物の創出など、至るところに見出すことができるのである。
 昨年の拙論でも述べたのであるが、原子力技術における要素過程のエネルギーは,他の産業技術におけるそれの100万倍にも上るのである。これが原爆の巨大な破壊力の源泉であり、チェルノブイリにおけるような原子炉事故の甚大な被害の源泉でもある。人体に及ぼす放射線障害の源泉もこの点に存在し、JCO臨界事故で亡くなられた大内さんは皮膚が糜爛して極めて痛ましいご様子であったと言われている。さらに、事故直後の即発臨界と、その後10時間近くも続いた遅発臨界による周辺住民の被曝実態は最早知る由もないのである。この点は、米国スリーマイル島事故においても同様であり、周辺住民の事故死は報告されてはいないものの、放射線による晩発障害や遺伝子損傷の実態は調べようがないのである。このような見えない放射線障害も原子力技術に特有な点である。
 野村元成氏は、筆者への批判として次のように述べた:「廃棄物やそれが環境中にでた後のことは基本的にまったく視野になかったのが現代技術ではないだろうか。DDTしかり、PCBしかりだ。原子力開発において、廃棄物のことが長年ほとんど留意されることがなかったのは、原子力が典型的な現代科学技術であったことの一側面とみるべき、というのが私の見方である。」しかし、原子力を他の産業技術と同列に論じる氏の捉え方は根本的に誤っていると思われる。DDTやPCBと、放射性廃棄物では、環境中における毒性の持続期間が桁違いに異なるのである。また、DDTやPCBの場合には、廃棄物処理方法は分かっていたのに当初は行わなかっただけなのに対して、放射性廃棄物の場合には、処理方法そのものが分かっていないという違いが存在する。野村氏における、原子力と他の産業技術の同一視は氏の次のような記述(注5)にも現れている:「リサイクル路線に対するものは、ワンス・スルー路線と呼ばれる。リサイクルは日本語にもなっているリサイクルの意味と思っておけばいい。」しかし、核燃料サイクルを、通常の意味におけるリサイクルと同様とみなすことは、たとえ原子力推進派の方々であろうともなさらないのではなかろうか?
 野村氏は化学のご出身と伺っているが、化学の立場からみれば、原子核もその周囲を旋回する電子群も、どちらも元素を規定するものという意味でさほどの違いはないのかもしれない。しかし、物理学的にみればその間には天と地ほどもの隔絶が存在するのである。なお、筆者が本稿を執筆する気になったのは、学部時代に「原子核物理学」の講義を担当された森永晴彦先生が、筆者と同様の見解をその著書(注6)の中で述べられているのを見て勇気づけられたからであったことを付け加えておきたい。

注1. たとえば、西尾成子『現代物理学の父 ニールス・ボーア』中公新書、1993。
注2. 安孫子誠也「改めて原子力「平和利用」を問う」News Letter, 10(3), No.36, STS Network Japan, 1999.
注3. 野村元成「安孫子誠也氏の“改めて原子力「平和利用」を問う”について」News Letter, 10(4), No.37, STSNetwork Japan, 1999.
注4. 以下の記述は主として、川上幸一『原子力の政治経済学』平凡社、1974、に拠っている。
注5. 野村元成「第8章 原子力問題の焦点」、調麻佐志・川崎勝編『科学技術時代への処方箋』pp145-167 on p147、北樹出版、1997。
注6. 森永晴彦『原子炉を眠らせ、太陽を呼び覚ませ』草思社、1997。



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